1990年 夏

4/29
前へ
/75ページ
次へ
 運ばれてきたカットグラスにロックアイス入れて芋焼酎を注ぐ。途端、甘い香りが辺りに拡がり、緊張しているはずの成瀬の喉が鳴った。 「じゃあ、乾杯しようか」  松岡の合図とともにグラスが重なり、口に含む。 ――― すげえ、旨い……  ふと隣りを見れば松岡も満足げに目を細めており、これも病棟では見せない顔であった。 「やっぱ、大将が勧めるだけありますね」  すると、大将は酒造元の歴史や苦労話を熱心に語り始め、松岡は焼酎のボトルを手に しきりと感心した。家飲みがほとんど、しかも缶ビールや缶チューハイ一辺倒の成瀬は酒にまつわるうんちくに興味がなかったが、造り手のこだわりを聞かされると『そんなものなのか……』と新しい扉が開らかれる心境になってくる。  大将の鮮やかな包丁さばきで出来上がった刺身の盛り合わせは見た目にも美しく、口に運んだその味も『蕩ける』と言った形容がふさわしい脂の乗りだった。気づけば自分ばかり食べていて慌てて松岡にも勧めると、彼は一切れ口にしたのち「おいしいね」と微笑んできて、図らずも鼓動が早くなった。 ――― 旨い酒と魚のせいだ、きっと……  そんな成瀬の戸惑いに気づかない松岡がグラスを回しながら何気に尋ねてくる。 「成瀬君って、なんで看護師になろうと思ったの?」 「実は姉が看護師で働く姿を見て興味が湧いたんです。そうしたら、地元の看護学校が男にも門戸を開くことになって入学を決めました」 「女性メインの仕事だから大変じゃない?」 「家に引きこもる辛さに比べたら大したことないです」 「引きこもる?」 「中学で登校拒否になって以来ずっと家にいました。せっかく入学した高校も数日行っただけで辞めちゃって」  もし、姉が引きこもりの弟がいることを話していたらこの言葉に反応するはずだが、案の定 松岡は箸を止めると真剣な面持ちになった。 「ちょっと聞いてもいいかな? 君のお姉さんの名前、なんていうの?」 「どうして?」 「知り合いじゃないかと思って」 「それはないと思います。姉は先生が勤務していた市立病院では働いてませんでしたから」  成瀬はこれまで松岡の質問には正直に答えてきた。嘘の辻褄を合わせ損なう心配をしたからだが、仕方なくついたこの嘘が全てを崩壊させる原因になろうとは、この時知る由もなかった。  明るい店内、大将の気配り、そして上質の寿司と酒ですっかりリラックスしてきた成瀬は、松岡を上目使いで見つめて甘えた声音で尋ねた。 「今度は俺からの質問ですよ。先生はどうしてドクターになろうと思ったんです?」 「う~ん、偏差値で決めちゃったかな」 「うわっ、いやみだな」 「『病気の人を救いたかった』と言ってほしかった?」 「まあそうですね」 「動機が曖昧だから自分に合ってないと後悔することが度々あるよ」 「そういう風には見えませんが」 「患者さんの命を左右する決断をしなくてはいけないから、未だにその重圧感に押しつぶされそうになる」 「でも、その謙虚な気持ちが大切なんじゃないんですか? 先生には医師と言う職業が合っていると思うけどな」  すっかり饒舌になった成瀬が二杯目のロックを飲み干した時だ。 「なかなかいけるね」 「お寿司が美味しいから何杯でも飲めます」 「明日は勤務?」 「はい」 「じゃあ、そのへんにしとかないと」 「そうですね」 「また一緒に飲もう。まだまだ話し足りない」 「俺といて楽しいですか?」 「うん」 「本当に?」 「興味があるんだ」 「どんなところに?」 「この前の市田さんへの対応でも感じたんだけど、、君にはいろんな顔がありそうだ。今日の短い時間でもそれを実感した」 「僕も先生に興味があります。今度ご一緒した時は先生のことをもっともっと教えてくださいね」  松岡の口から「興味がある」と言う言葉を引き出した成瀬は心の中でガッツポーズした。そして、帰り際に電話番号を聞かれて悦に入るのだった。
/75ページ

最初のコメントを投稿しよう!

146人が本棚に入れています
本棚に追加