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食事に行ってから、松岡は成瀬に急速に接近してきた。これまでも処方箋や検査伝票を名指しで預けてきたことはあったが、今では冗談を言ってからかい、夜勤の時にはわざわざ降りて来て雑談するようになった。松岡が成瀬を気に入っているのは誰の目にも明らかで、スタッフたちが「ラブラブですね」と茶化しても「当てつけてごめん」と言い返す余裕があった。
そんな中、あの加納だけが二人の関係に同僚以上の匂いを嗅ぎ取っていた。が、相手が松岡だと静観するしかなく、病棟で飲み会があっても以前の様に成瀬の隣に居座ることもなくなったばかりか出席自体をキャンセルするようになった。
松岡の変化は、彼と親密な関係になることを画策していた成瀬にとって願ったり叶ったりだった。
――― 労せずして関心を向けてくれるなんて、ラッキーじゃないか
もっと二人の距離が縮まったら、その時は彼を自宅へ誘おう。そして、委託した探偵に不倫現場の写真を撮らせて、それをネタに揺さぶりをかけよう――― そう成瀬は計画して、時が来るのを待った。
ある夜勤の晩のこと。もう一人の看護婦が仮眠に入ってすぐ、松岡が当直室から降りてきた。
時刻は深夜の一時半。この時、成瀬は受け持ち患者の看護計画の見直しをしていたが、松岡の突然の来室に驚きつつも「お疲れ様です」とにこやかに挨拶をした。
――― こんな真夜中にやって来て、どういうつもりなんだ?
松岡は円卓に並んだ椅子の一つに座わると「なにか変ったことはない?」と尋ね、そのあと少しはにかみながら「今度、一緒に食事に行かないか?」と誘ってきた。
なるほど、そういうわけ…… と、ニヤける成瀬。
「嬉しいです。丁度、俺も先生と飲みに行きたいと思っていたところでした」
「すこし遠い場所にある居酒屋だけど構わない?」
「ゆっくり話が出来るところならどこでも」
「土曜の夜は空いてる?」
「はい、大丈夫です」
こうして二人だけの飲み会の日程が決まると、松岡は当直室に上がっていった。
彼が自分を食事に誘うためだけに病棟へ来たのは明白で、しかもナースステーション前のエレベーターを使わず階段で来たのは、三階の看護師たちに気づかれないためだと推測した成瀬は、だんだんおかしくなってきた。
大の大人が、しかも仕事場で一目置かれている男が、自分より格下の男を誘うためにコソコソ動き回っているのが何とも滑稽で、ナースコールで呼ばれるまでその口元には皮肉の籠った笑みを宿し続けていた。
当日―――
成瀬は待ち合わせ場所のコンビニで松岡が来るのを待っていた。
遅れてはいけないと、約束の時間よりだいぶ早目に来た成瀬は雑誌の立ち読みをしながら松岡のことを考えていた。
以前は、姉の幸せを踏みにじった憎い相手という先入観で見ていたが、その仕事ぶりや人となりを知るにつれ嫌悪感が薄らいでいるのを感じた。正直、これは大問題だが、それを逆手にとって、憎悪がないぶん疑似恋愛しやすいのではないか? と、考えをシフトさせることにした。
――― 絶対あり得ない相手と死ぬ思いでセックスするよりマシだ、きっと……
程なくして、松岡が姿を現した。
淡い色目のジャケットとVネックのシャツ、ダークブルーのジーンズの出で立ちは、白衣姿を見慣れている成瀬の瞳にかなり印象的に映った。
この前のビアガーデンの時といい、飾り気のないシンプルな装いは彼自身の魅力を引き立たせる効果になっていて、もしそれが分かっていてのチョイスなら、相当自分に自信があるんだろうな…… と、ほくそ笑んだ。
居酒屋までの道すがら、二人は互いの近況報告をしあった。話し上手な松岡にすっかり乗せられた成瀬は、三月に引っ越した新居についての質問を受けるとこう答えた。
「まだ荷解きしていない段ボールが部屋に転がっていて、必要な時だけそこから引っ張り出す生活をしてるんです」
「引っ越ししてから一度も使っていないものは不用品なんだから、思い切って捨てちゃえば?」
実は、段ボールの一つに興信所の資料が入っていた。近いうちに彼を部屋に連れ込む予定なので、目につく場所には置けずにそこへ隠している。
「前に住んでいた部屋もそれは酷いありさまで、布団は敷きっぱなし、ゴミは溜まりっ放し、パイプハンガーには埃を被った服がかけっぱなしだったんです。今のアパートではそうならないようホ―ムセンターで家具や収納用品を買ったんですが、収納が追いついていません」
「ははは、そうなんだ」
「その点、先生の家は綺麗そうですね。広くて天井が高くて、センスのあるインテリアに囲まれたモデルルームみたいな家なんでしょう?」
成瀬が若干の嫌味を込めて尋ねると、松岡は一瞬、言葉を詰まらせた。
「妻が潔癖だから片付いてはいる」
「環境もいいんでしょう?」
「病院に近い戸建ての賃貸という条件だけで探したから、そこまで良くないよ」
「どうして戸建てにしようと思ったんです?」
「妻がピアノを教えていてね。マンションだと騒音の問題とかあるだろう?」
「夫がドクター、妻はピアノ教師なんて理想の夫婦像ですね」
今度はかなり険を含んで言ってやった。お前は良家の女を娶って幸せだろうが、その陰で泣いている人間がいるんだということを言いたかったから。やはり、松岡の家族の話を聞くと、どうしても許せない気持ちが泉の水の様に湧きあがって来るのであった。
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