1990年 夏

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 松岡に連れて行かれた場所は、先日の寿司屋とは百八十度趣の違う庶民的な居酒屋だった。広い店内にはカウンター・テーブル・座敷席が雑然と配置され、どの席も客で埋まって大そうな賑わいをみせている。  案内された席に座ると、二人はメニューを開いた。生ビールとつまみを何品かオーダーしている間、成瀬は改めて辺り見回した。  隣では若い女性二人がビールジョッキ片手に山芋の鉄板焼きを突いている。話の内容は定かではないが、つまならそうな顔をしているところを見ると仕事か彼氏の愚痴といったところか。反対側の中年男性二人組は真っ赤な顔をして酎ハイをあおっている。  成瀬は思った。松岡がこの店を選んだ理由は、自分に気を使わせないための配慮なんだろうと……  運ばれてきた生ビールで乾杯した後は、仕事の話になった。松岡が主治医、成瀬が受け持ちの患者の病状・治療方針について語りながら、成瀬は松岡の仕事ぶりを褒めた。お世辞だが、本音もちらほら混ざっている。 「間質性肺炎や細菌性髄膜炎といった重篤な患者さんでも先生が主治医なら安心できるんです。薬の使い方が巧みで、必ず患者さんを快方に向かわせるから」 「おだてても何も出ないよ」 「おだててるんじゃありません。みんな、そう言っています」 「久しぶりに褒められた」と笑いながらビールを飲み干すと、松岡は手を上げて追加をオーダーした。その横顔は、なんだか浮かれているように見える。  そんなに褒められて嬉しいのか? はたまた、俺と一緒に飲むのが楽しいのか? それにしたって飲むスピードが速いけど、一軒目からそんなにピッチを上げて大丈夫なのか? 肝心な時に役立たずになってもらっちゃ困るんだけど ――― そんなことを考えていたら、朝帰りになった時の言い訳はどうするのか気になってきた。 「先生?」 「なあに?」 「土曜日に奥さんを置いて飲みに行っても大丈夫なんですか?」 「うん、いま家にいないから」 「えっ?」と驚く成瀬と、『しまった』という表情の松岡。 「実は…… 出産の為に里帰りしてるんだ」 ――― なるほど、そういうこと  以前、松岡の後をつけた時に子どもの名づけの本を買っていたので合点がいった。 「おめでとうございます。予定日は?」 「九月の初旬」 「それで、奥さんがいないあいだ羽目を外してるってわけですか」  冗談で言ったつもりのなのに、松岡の表情が曇ってきたので成瀬は焦った。 「すみません、調子に乗りました」 「子どもが生まれるのは嬉しいけど……」 「えっ?」 「妻との関係があまり良くないんだ」 「そうなんですか?」 「見合い結婚した妻とは未だに打ち解けることが出来ない。自分のせいなのはわかっているけれど……」  そして、松岡は妻との結婚生活を切々と語り始めた。 「僕の実家はK市にある旅館なんだが、バブル崩壊後経営不振に陥ってホテルチェーンの傘下に入ることになったんだ。そして、繋がりをより強固なものにするためにホテル経営者の娘…… つまり妻との結婚を余儀なくされた。当時、僕には付き合っていた女性がいたんだけど、百余年の旅館の歴史や親の涙ながらの訴えや従業員の行く末を考えて苦渋の決断をした。今でも『彼女にはすまないことをした』と、胸が痛むよ」  突然、話の中に自分の姉が出てきて驚いた成瀬は、姿勢を正すと真剣に耳を傾けた。
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