1991年 早春

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 立ち去るタクシーのテールランプを見つめながら、成瀬はどうしたものかと考えた。  恐らく、加納は嘘をついている。自分と一晩を共にしたいが故にタクシーから降りてきた。送別会では常に傍にいたし、帰りの車中では膝と膝を触れ合わせてきた。今も舐める様な視線を、いやらしげにつり上がった口元をこちらに向けている。おそらく間違いないだろう。  目鼻立ちが整った顔。高身長で色黒。体中から精悍な雰囲気が漂っていて(一部の看護師からは『気分にムラがある』と嫌われているようだが)、そんな彼からのモーションを果たして受け入れられるのか? 受け入れていいものか?――― 成瀬は皮のジャンパーのファスナーを上げながら考えた。  実のところ、この男が自分をどう抱くのか興味があった。白衣の上からでも分かるあの筋肉に包まれて滅茶苦茶にされたら、一瞬でも松岡のことを忘れることが出来るかもしれない。その上、あと数日もすれば遠い街へ引っ越すのでこの男とは二度と会うことはない――― そう思ったら自ずと答えは導かれ、成瀬はファスナーから手を離すと妖艶な笑みを浮かべて加納を誘った。 「そこ、俺のアパートなんです。ちょっと寄って行きませんか?」  鍵穴にキ―を差し込みドアを開けると、加納を部屋に招き入れた。そして「適当に寛いで下さい」と言って台所に立つと薬缶に水を汲んで火にかけた。  オレンジ色の不完全燃焼の炎を見つめながら、成瀬は「朝までいるんだろうな」と考えた。昨日と同じ服で出勤したらマズいだろうにと思うけど、自分には関係ないと苦笑して別の心配を始めた。 ――― 部屋にコンドームはあっただろうか  できればセーフティーセックスを心掛けたいので準備しておきたいが、松岡と別れてからどこにあるのか定かではなく、今からコンビニへ行くのも億劫だ。  そうこうするうちに薬缶の蓋がカタカタ鳴り始め、成瀬はインスタントコーヒーの入ったマグカップに湯を注ぐと炬燵で体を温めている加納に勧めた。 「ありがとう」  礼を言うと、加納は一口啜った。そして、おもむろに辺りを見回して「随分すっきりしてるな」と感心した。実は、引越しの為に家財道具を整理中で、明日業者が段ボールを持ってくる手筈になっているのだが、そんなことを話すつもりは毛頭ない。 「先生の部屋はどんな感じなんです?」 「医局の机と同じでゴチャゴチャしている。今度、遊びにおいでよ」 「機会があれば」 「あ、でも松岡先生に叱られるかな?」 「はあ?」 「とぼけなくてもいい。君らの関係は知っているから」 「関係?」 「付き合ってたんだろう?」 「まさか……」 「僕もそっちの人間だからわかるんだ。いつだっけ、松岡先生が出張のとき、君も連休を取っただろう? で、その数日後コンビニで松岡先生と待ち合わせするのをネーベンに行く途中 車の中で見かけてビンゴだと思った」  自分がゲイだと知れるのは構わないが、松岡に迷惑がかかるのを恐れた成瀬は取り繕い始めた。 「先生の出張と俺の連休が重なったのは偶然で、あの日の待ち合わせも一緒に飯を食いに行っただけで…… ほんと、冗談キツイな」 「素直に認めりゃいいのに」 「確かに、先生とは親しくさせてもらいました。だけど、加納先生が思っているような関係じゃありません。お子さんが生まれたばかりの先生が男の俺と付き合うはずないじゃないですか」 「そんなに必死にならなくても」 「必死にだなんて…… 」 「知られたくないならこれ以上詮索はしない。僕はね、君がその気になってくれさえすればいいんだから」  そう言うと、加納は成瀬の腕を掴んで強引に引き寄せた。
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