1991年 早春

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 目から火が出るとはこのことか? と思うほどの激痛に襲われた成瀬は、炬燵の敷布団を引きちぎらんばかりに握りしめた。  ズンズンと律動されると内臓を押し上げられるような感覚に陥り嘔気がしてくる。もちろん快感などあるはずもなく、縮こまっているペニスがなんとも哀れに見えた。  充分解されていない箇所を無理矢理広げての行為ゆえ出血を心配したが、体位を変えた時に赤いものが布団に散らばっているの見て『やはり』と思った。  こんな拷問の様なセックス、ありえない。彼だったら、彼だったら――― と憤慨したが、誘ったのはこっちだし、自分だって打算で抱かれようとしたんじゃないかと諦めると、体を揺さぶられながら ひたすら終わりが来るのを待った。  一段と激しく突いた後、加納は果てた。  煌々と灯る蛍光灯の下、快楽で歪んだその顔はそれなりにセクシーだったが琴線に触れることはなく『早くその重たい体をどけてくれ』とイラつきもした。 「ごめん、一人でいっちゃった」  コンドームを押さえながら出て行った後、加納は悪びれもせずに笑った。 「気持ち良くなかった?」 「……」 「手コキしてあげよっか?」 「……」 「ごめん、出血させたみたい。解したつもりだったんだけど」  アレのどこが? と、怒りを露わにして起き上がった成瀬はティッシュを求めて這いつくばった。 「痛っ……」 「興奮して つい乱暴にしちゃった。ねえ、松岡先生ってどんな感じ?」 「……」 「優しく抱くの? それとも激しいの?」 「先生とはこんなことしてないです」 「はいはい、わかりました」  しばらく尻にティッシュを当てたあと、出血の状態を見た。表面に赤い花のような鮮血が拡がったが、何度か繰り返すうちに止まった。  ふと見れば、加納は大の字で横になっている。下着をつけただけの姿がいつも目にするそれと違って違和感があるが、それ以外何の感慨も湧かなかった。 ――― 先生と結ばれた時は、嬉しさで舞い上がったのに  そう、あの時は生まれて初めて味わった幸福感に有頂天になった。この悦びがずっと続くものだと信じて疑わなかった。だから、それが脆くも崩れ去った時、地獄の苦しみを味わって死ぬことも考えた。  姉弟そろって同じ男に入れ上げて、挙句の果てにはこの有様――― と、自虐的な冗談も言えるようになった今は生きる気力も徐々に湧き、自分の中にある負の呪縛から決別する手段として この地から出て行く決意をしている。  その後、加納は仮眠を取ったあと成瀬のアパートを出た。時刻は四時。まだ夜中といってもいい早春の暗闇のなか、シャワーも浴びずに服を着た彼は、大きな背中を揺らしながら玄関へ向かった。  加納は年季の入ったショートブーツの紐を結んで立ち上がると、見送りに来た成瀬に向かって「電話番号を教えて欲しい」と訴えた。 「病棟で君の姿が見れなくなると思ったら寂しいんだ。また逢ってくれないか?」  成瀬は驚いた。加納は一晩の関係にするつもりではなかったのだ。これは「付き合ってほしい」ということなんだろうか? 「駄目?」  縋るような視線を向けられて良心の呵責に苛まれたが、成瀬は番号を教えた。そう、近日中には繋がらなくなる電話番号を。加納は二度ほど声に出して反芻したあと微笑みかけてきた。どうやらそれで覚えたようだった。 「もう一度キスさせて」と言われて躊躇していると両肩を引き寄せられた。口づけが思いのほか優しくて戸惑っていると、加納は潤んだ瞳を向けて「じゃあ、また」と言い残し部屋から出ていった。 『人の心を弄んだ』と松岡を咎めたくせに、自分も同じことをしている――― そう思ったら、次第に涙が溢れてきてポタポタと床に落ちた。そして、堪え切れなくなると声を出して泣き始めていた。
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