1989年 秋

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◇◇◇◇  フロントの風景は、どこにでもある公衆浴場だった。こじんまりした受付、ずらりと並んだシューズロッカー、天井に設置された直管蛍光灯、染み一つない白い壁――― 淫靡な雰囲気を想像していた成瀬は思わず拍子抜けしたが、なぜか対応した従業員が困惑気味な表情をみせた。 「ご利用が初めてだと?」 「はい、そうです」 「当店のことは、どこでお知りになりましたか?」  おそらく、一般客の来店を牽制しての質問なんだろうと察した成瀬は 「雑誌を見たんですが……」  すると、従業員の顔が柔和になり、利用方法の簡単な説明を始めた。  話を聞き終えた成瀬が振り返った時だ。シューズロッカーにしなだれかかってこちらを見つめる男と目が合い心拍数が上がった。彼は上から下まで値踏みするような視線を向けると、 「あんた、ここ初めて?」 「はい……」 「可愛い顔、してるわね」 「はあ……」 「うらやましい」 「あ、ありがとうございます……」 「上玉だからすぐ男が群がってくると思うけど、遠慮なくえり好みしちゃって構わないから」 「そうなんですか?」 「案内してあげる、ついてきて」  閉鎖的な田舎で暮らしていた成瀬は、この女言葉を使う男に驚いた。一見サラリーマン風だが、よく見ると耳にピアスをしている、それも片方だけ。 「まずは、更衣室で服を脱いでお風呂に入って。それが済んだら、ガウンかタオルを巻いてプレイルームへ。プレイルームには大部屋と個室があるからいい方を使って。あなた、ネコちゃん?」 「ネコ?」 「受け身? って聞いてんの」 「おそらく、たぶん……」 「なら、ロッカーキ―を左腕につけて。プレイルームの布団に潜ったら、すぐに誰か来てくれるわよ」  更衣室で服を脱いだ後、言われたとおりに大浴場へ向かった。途中の通路で客から舐めるように見つめられ、すれ違いざまに口笛を吹かれた。風呂場ではギラギラした目で見つめられ、肉食獣から睨まれた獲物の心境で体を洗って生きた心地がしなかった。  湯船に浸かることなく浴場から出てきた成瀬は言われた通りに大部屋へ向かったが、そこは人の顔がおぼろげに見える程度の暗さで、天井から赤と青の照明が淫靡な光がを放っていた。  辺りを見渡せば、床に敷かれた布団のあちこちで男同士が絡み合っている。  途切れることなくキスを繰り返すカップル、逆に向き合い互いの性器を貪るカップル、後ろからの行為に及んでいるカップル、――― 暗い室内のあちこちから低い喘ぎ声が聞こえてきて、生まれて初めて見る他人のまぐわいに度肝を抜かれた成瀬は、生半可な気持ちで訪れたことを後悔し、逃げようと踵を返したが、いきなり腕を掴まれ悲鳴を上げた。  目の前に小太りの男が立ちふさがり、好色な瞳が眼鏡の奥で光っている。  突然の出来事に立ち竦んでいたら、いきなりその場で押し倒されてガウンの前をはだけさせられた。 「ちょ、待っ!」  必死に抵抗するけれど、腕を床に縫い止められ、足を押さえ込まれ、首筋をベロベロ舐められる。  こんなところで犯されるのか? と、恐怖が芽生えた成瀬は、とにかくこの男から逃れたくて めくらめっぽうに暴れると隙をついて逃げ出し、身を隠せそうな場所に飛び込んだ。そこは迷路のように入り組んだ個室のコーナーで、とりあえず空き部屋に入ってベッドに傾れ込んだ。 ――― 無理だ、ここから出よう ――― いやいや、何のために来たんだ。怖気づいてどうする  相反する気持ちに右往左往していると、入り口に人影が立っているのに気づいてギクリとした。  暗闇の中、シルエットでしか分からないがヒョロヒョロと痩せた男だった。明らかに先ほどの男とは別人で、ゆっくり近づいてくると成瀬の前に跪いた。 「襲われてたけど、大丈夫?」  おずおずと頷く成瀬。 「初めてなのに災難だったね」 「どうしてそれを……」 「ロッカーにいる時から目をつけてたから。声をかけようとしたら、メタボ君に先起こされた」 「なんかもう、いきなりでビビりました」 「誰でも初めはそうだよ。ねえ、優しくしてあげるから相手してくれない?」 「……」 「決して無理はさせない」 「俺、楽しませることができませんよ」 「リードするから大丈夫」  そう言うと、男は成瀬の手を恭しく持ち上げて手の甲にキスをした。
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