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2014年 秋
二十三年後、晩秋―――
紅葉の季節が終わりを告げ、赤や黄色の葉が秋風とともに舞い落ちる頃、山間の集落にひっそり佇む町立診療所の出入り口が勢いよく開き、中から白衣姿の男性が飛び出してきた。
「お~い、成瀬さ~ん」
名前を呼ばれた当の本人は『何事か?』と目を細め、腰を手で抑えながら背を伸ばした。近頃、老眼が進んだ上、中腰でいると鈍い痛みが走る。いつのまにか「よいしょ」が口癖になり、馴染みの患者から「まだ若いのに」とからかわれるけれど、あと少しで五十の大台に乗るのだ。
右手に熊手、左手に塵取りを持って駐車場の落ち葉をかき集めていた成瀬は、駆け寄る診療所長の満面の笑みに息を呑んだ。
「いったいどうしたんです?」
「募集していた僕の後任が見つかって、今度面接に来るってさ」
「うそ!」
「今度こそ本当!」
「やった!」と言ってハイタッチする成瀬だったが、次第にその表情が曇り出す。
「でもその人、ここの現状を知ってるんでしょうか?」
「へき地医療拠点病院での勤務経験があるみたいだから、多分大丈夫」
「給料面も納得済み?」
「金うんぬんより、地域住民の健康と生命を守ることに やりがいと生きがいを感じたいそうだ」
「奇特な人だけど、信じちゃっていいのかな?」
「実はそのドクター、叔父貴の大学の同期でね。見ず知らずの人間じゃないから信頼できると思うのは楽観的過ぎる?」
「う~ん」
「ああ、これで安心して実家を継げる。親父もようやく引退できる。そういえば、成瀬さんも今のうちに長期休暇を取ったらいいよ」
「長期休暇?」
「脅すつもりじゃないけれど、新しい先生のフォローで忙しくなると思うから充電しておいた方がいい。そうだ、この機会に海外旅行にでも行ってきたら?」
「海外……ですか」
「その間、僕 無休で頑張るから」
「そこまでして休もうと思わないです。それに、一人で行きたくないし」
「なんで?」
「不安だから」
「誰かを誘ったら? 電器屋の秀さんとか」
「高所恐怖症だから無理です」
「炉端焼きの絵里名さんは?」
「買い物三昧で疲れそう」
「兎に角、新しい先生が慣れるまで成瀬さんが診療所の大黒柱だから よろしく頼むよ」
「僕に務まるでしょうか?」
「何をおっしゃいますやら。患者さん、皆 君目当てでやって来るのに」
「それはないです」
「『ひかる先生』って呼ばれてるじゃない」
「からかわれているんです」
「ご謙遜を。ま、休暇の件 考えておいてね」
そう言い残して来た道を引き返す所長の後姿を見つめながら、成瀬は『どうしたものか』と、空を見上げた。瞳に映るのは、高く澄み切った青空とそこに広がる鱗雲。そして、建物の背後に林立する青々しい竹の群生……
初めて村へやっていた時、この風景を見て昔の記憶がよみがえった。それは二十代の頃、初恋の人と泊まった温泉旅館で、辺りを竹林が囲み、清浄な空気と葉擦れの音が周囲に満ちていた。今ではすっかり見慣れたが、休暇の話題で思い出す。
――― そうだ、あの旅館へ行ってみようか
元恋人との思い出を懐かしむのではなく、もう一度あの幽玄世界に触れてみたいと思った。これまでいろんな場所――― 例えば、モルジブの水上コテージやフィンランドのアイスホテル、ドバイの七つ星ホテルといったところへ宿泊したことがあったけれど『一番印象に残った場所は?』と問われれば、やはり ここ。それ程、あの旅館での一泊にカルチャーショックを受けていた。
仕事が終わって家路に就いた成瀬は、さっそくネットで旅館のホームページにアクセスした。二十年経ってもそこは営業していて、映し出された画像に懐かしさがこみ上げてくる。帳場と客室は幾分リノベーションが施されていたが、建物の構や雰囲気はそのまんま。かつて自分達が泊まった部屋を見た時には感動したが、その料金を見て仰け反った。
――― 松岡先生、随分奮発したんだな
自分との初めての旅行に金を惜しまなかった元恋人の気前の良さに恐縮した時だ。僅かに開いた窓の隙間から風が吹き込み、机にあった写真立てがパタリと倒れた。
窓を閉め、写真立てを手にした成瀬の唇に笑みが宿る。そこには、無精ひげを蓄えた色黒の男が写っていた。
「もしかして、やきもち焼いた?」
物言わぬ写真に語りかけ、指先で顔をなぞる。
「未練なんてない。ちょっと懐かしく思っただけ。それより、連休どうしようかな。せっかくだから休みを貰って そこへ行こうかな。そうだ、君の父さんも一緒にどうだろう? 温泉でのんびりできるし美味しい料理も食べられるし、ここから車で一時間弱だから体に負担もかからない」
話しかける相手は、同僚だった恋人。先ほどの海外旅行もこの男と行ったが、七年前に他界した。闘病中は仕事を辞めて看病に専念し、死後は男の故郷で看護師をしながら高齢の父親を見守っている。
父親はゲイの息子を受け入れられず長い間絶縁していた。しかし、成瀬の尽力で気持ちが軟化し看取ることができ、それ以後、成瀬に恩を感じて閉鎖的な村に馴染めるよう橋渡ししたのであった。
それから 数か月後――
後任のドクターが挨拶にやって来る日、成瀬は朝から緊張していた。第一印象は大切だと思い、いつもより念入りに診察室と待合室の掃除をし、駐車場の草むしりをした。これで良しと、雑草が詰まったビニール袋を下げて戻って来ると、新聞紙で包んだ花束を持った村人と会った。農業を営む近所のおばあさんで、毎日花を活けにやってくる。
「新しい先生が来なさるから、今日は ちょっと豪勢やけん」
「ほんとうだ。いつもありがとうございます」
「どこから見えるとね?」
「S市の公立病院から。あと数年で定年退職を迎えるドクターだそうです」
「そういうのを【天下り】っていうのかね?」
「【天下り】でこんな所へは来んでしょう」
「じゃあ、不祥事で飛ばされたんかい?」
「村人の健康を守ることで やりがいと生きがいを得たいそうですよ」
「シュヴァイツァーみたいな人やね」
「それはちょっと違うような……」
「とにかく、こんな田舎へ来るなんて殊勝なこったい」と感心した女性は、持ってきた花束を二つに分け、一つは受付に、もう一つは待合室のテーブルに活けて帰っていった。
9時に診療が開始すると、患者がぽつぽつやって来た。
村の患者の8割は高齢者で、病名も高血圧・糖尿病・骨粗しょう症・不整脈といった慢性疾患が多いが、中には外傷や救命救急処置を必要とする患者も来るので、医者はオールラウンドに診療できる力量と、24時間対応できるタフさを持ち合わせていなければならない。それは看護師も同様だが、この二十余年で一通りの診療科を回った成瀬は、その知識と経験をいかんなく発揮して地域住民の信頼を得ていた。
新任のドクターとの約束時間になると、所長は診療所を成瀬に任せて迎えに行き、成瀬はパソコンの前に座ってメールの確認をした。その中に、大学の医学研究所のがあり、成瀬への礼が綴られていた。ここに赴任して以来、成瀬は村人の検診・検査・追跡調査の結果をそこへ提供し、生活習慣病の研究に協力していた。『今度来る先生にも理解を得ないと』と、思いつつ返信を打っていると車のエンジン音が聞こえ、しばらくして診察室のドアから所長が顔をのぞかせた。
「成瀬さん、先生がみえたよ」
ようやくお出ましだ――― と、はやる気持ちを押さえつつ待合室に出向き、所長の隣にいる男性に挨拶しようとしたのだが……
――― えっ!
この顔に見覚えがあるけど いったい……
そして、脳裏の片隅にあった記憶が色を帯びてくると愕然とし、魚のように口を開け閉めさせて こう問いかけた。
「松岡先生…… ですよね?」
「知り合いなの?」
「昔、一緒に働いたことがあって。まさか新任の先生が あなただなんて……」
一方、松岡も成瀬のことを思い出したらしく目を見開いて立ち尽くしていたが、次第に顔がほころび成瀬の前に歩み出た。
「久しぶりだね。元気にしてた?」
「ええ……。先生は?」
「僕も、元気だった」
目の前にいる元恋人は髪に白いものが混ざり、目尻に皺が刻まれ、逢わなかった年月を感じさせたが、滲むような笑顔は昔のままで、動揺した成瀬は思わず俯いたのだった。
――― end
最後までお読みくださりありがとうございました。
次回から、再会した二人の物語が始まります。
結構焦れったいですが、楽しんでいただけたら幸いです。
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