1989年 冬

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「明日、発つのよね」 「うん」 「やっぱり行っちゃうの?」 「決めたことだから」 「なぜ、あんなところへ?」 「もっと上を目指したいから。看護の世界は女性が主流だけど、これからは男性の需要も出てくると思う。その為のステップアップとして」 「今の病院だって充分あなたのスキルを生かせる場所だったじゃない。CCUでは随分頼りにされてたようだし」 「もう三年いたから充分だ」 「あなたには都会は合わない気がするけど」 「行ってみないとわからない」  これは、何度も繰り返された会話だった。  姉は引っ越し先が元婚約者の住む町だとは気づいていないようだが、弟の行動を不審に思い納得いかない様子であった。  そんな彼女に向かって、成瀬は申し訳なさそうに眉をひそめると 「ごめん、父さんの看病を押しつけて。恐らく、向こうにはそんなに長くいないと思う。せいぜい二年」 「ならどうして?」 「行かなきゃならないんだ。もう、なにも言わないでくれ」  それで二人の会話は終わった。呼び出し鈴が鳴って来客が来たからだが、玄関で新聞の集金の応対をする姉の後ろ姿を見つめながら、成瀬は彼女のこれまでを思った。  姉とは強い絆で結ばれていた。両親の不仲という境遇を支え合うことで乗り越えてきたし、両親の離婚後離れて暮らすようになっても、連絡を取り合い互いを思いやった。  そんな姉が将来を誓い合った相手と別れた時の憔悴ぶりは、今でも瞼の裏に焼きついて離れない。慰めても慰めても彼女の悲しみが緩和することはなく、無力に打ちひしがれた自分は相手男性への恨みを募らせた。  月日が経ち、ようやく前向きな気持ちになり始めた頃、姉は体調を崩した。女性の機能を損なう大病で、手術後は父の世話もあって長年勤めていた病院を退職した。  そのことは、自分にとっても衝撃だった。悲しみを乗り越えた彼女が新しい相手と巡り合うことを切に願っていたのに、病に罹り、子を望めぬ体になった今、その道のりが険しいものになったのは明らかだった。  もし、あの男と結婚していたなら、今ごろ子どもにも恵まれて――― そう思ったら、復讐心がより強固になった。 ――― 彼女から奪った幸せを金で償ってもらおう。もし拒否した場合は、我が身もろとも絶望の淵に落としてやる  そう心に決めた成瀬は、実行に移すべく明日新たな地へ旅立つのだった。  一時間程して、成瀬は実家をあとにした。  玄関まで見送りに来た姉に向かって「じゃあ」と足を踏み出そうとした時、「光…… 」と呼びとめられて振り返る。 「私たちのことは心配しなくていいから。父さんは小康状態だし、それなりに仲良くやっているし。クリニックの仕事もやりがいがあって楽しいわ。もしかしたら、今が一番幸せなのかもしれない。唯一気がかりなのは、あなたのこと。あなたが心配でならないの。やりたい事をするのは構わないけれど決して無理をしないで。自分の幸せだけを考えて」  目に涙を浮かべて訴える姉に「わかった」とだけ言い残すと、成瀬は来た道を引き返した。西の空には夕日が沈み、それに向かって黙々と歩いた。
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