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1991年 早春
冬の寒気に耐えた桜の蕾が綻びはじめた頃、成瀬光の送別会が催された。病院近くの居酒屋で一次会。カラオケ店で二次会。そして、時刻が日付けを跨ごうとする頃、一行は三次会のスナックへ向かった。
ネオン瞬く繁華街を走り抜けるタクシーの中、主役の成瀬は後部座席に座り看護師と話していたが、酔った彼女は病棟とは違う甘えた視線をよこしながらこう言った。
「明日から成瀬君が来なくて寂しいな」
「俺もです」
「ぶっちゃけ、理由はなんなの?」
「なにがです?」
「辞める理由」
「違う病院で働いてみたいからだって言ってるじゃないですか」
「本当?」
「本当ですって」
「松岡先生がいなくなったからじゃないの?」
「はあ?」
「仲良しだった先生が異動して、すっかり大人しくなっちゃったもんね。私も二人の掛け合いが聞けなくて寂しいよ」
「一体いつの話をしてるんです」
「あと、給料かな? ここ、あんまし良くないもんね。その上、スキルアップを目指せるとこでもないし」
「でも、働きやすい病院でしたよ。スタッフの仲が良くて病棟内の雰囲気も明るくて」
その時だった。「僕もそう思う」と、助手席の医師が振り返りざまにこう言った。
「スタッフもだけど患者層がいいんだよね。医師会が運営する紹介型病院だからかもしれないけれど」
「そうなんですか? 私、ここ以外で働いたことないからわかんない」
「病院によってカラ―が違うからね。異動の度に『ここは良かった』『あそこはいまいち』って思うよ」
程なくしてタクシーは到着し、話題が中断されたので成瀬は安堵した。
病院を辞める理由――― そんなの決まっていた。
失恋したからだ。
復讐をする為に近づいた男と恋に落ち、至福を味わっている最中に相手が真実を知って振られた。
決して愛してはならない相手に入れ上げてのこのザマに『そら見たことか』と嘲笑するしかないのだが、その後成瀬は茫然自失・阿鼻叫喚・五里霧中になった。
自分に残ったものは仕事しかなくて家と病院を往復する日々を過ごしたが、ふとした瞬間に松岡と過ごした日々を思い出し、寂しさを紛らわすために彼に連れて行ってもらった場所――― 例えば、敷居の高さに尻込みしながら入った寿司屋や自分をイメージしたオリジナルカクテルを作ってもらったバーを訪れては自身を慰めている。
三次会で一時間ほど飲んだ後、送別会はお開きになった。時刻は既に一時を回っていて、帰る方向が一緒だという加納というドクターと同じタクシーに乗った。三次会へ行く時、一緒の車に乗っていたあの男である。
齢は三十才を少し過ぎたくらい。独身のせいか軽い印象だが、コミュニケーションが上手いので患者受けは良かった。松岡がいなくなったあと成瀬に度々ちょっかいをかけてきて、今日は一次会から三次会までぴったり寄り添っている。
タクシーが成瀬のアパートに到着した。
タクシー代の支払いを固辞する加納に丁寧に礼を言い、最後の別れの言葉を告げて車から降りると、驚いたことに彼も一緒についてきた。
「先生?」
「酔い覚ましに ここから歩いて帰ろうと思ってね」
片目をつぶったその顔に、成瀬は嫌悪にも似た感情を抱いていた。
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