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「でもさあ」
何故ここで突然この話になったのか、分からない。すーっと何かに引っ張られるように自然と話の方向が変わった。そんな気がした。俺以外が違和感を覚えることなく章子の呟きに耳を傾け続けた。
「千生もこれたら良かったのにね」
さっきまで賑やかにしていた全員が黙り込み、触れてはいけない話題だったのだと、そんな共通認識がテーブルに追加料理と共に並べられた。
「章子、飲み過ぎなんじゃない?」
「え〜?由依こそ全然飲んでないじゃん、ほらほら飲んで飲んで」
「えっ、あ……うん」
見るからに顔色の悪くなっている由依の言葉も虚しく酔った章子は自分の瓶ビールを由依のグラスに注いでいく。さっきまでカシスオレンジが入っていたそのグラスの中は強引に注がれた瓶ビールと混ざり少しだけ赤くなっている。
俺と健志、拓斗は目配せをしてこの場の雰囲気を切り替えることを互いに提案しあった。カップルで隣に並んで座っていた向かいの席の拓斗に向けて顎で「いけ、いけ」と指示をする。というのも拓斗が一番口が上手いからだ。こんな指図のようなことができるのも20年来の付き合いがあるからできることだった。そして、そんな長い付き合いの中だからこそ、今その雰囲気を壊すのは良いことだとは思えなかった。
「章子」
「千生さ、虐待されてたんだよ」
ふたりの声が重なり、酔って大きくなった声とその言葉のインパクトから拓斗の声は章子の声に飲まれ掻き消された。そして悪酔いした章子は周りを見ることなく続ける。
「千生、養母に虐待されてたんだって。あの頃は事件にもならなかったし私たちに回ってくる情報なんて少なかったけど、この前たまたま実家に戻ったらお母さんがね、近所の人から聞いたって言ってて。あの辺じゃ有名な話らしいよ」
唯一、この場の雰囲気を冷静に見ることが出来ていない章子だけが出来たての揚げ銀杏を摘んで口に入れた。
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