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最後のとき
「ごめんね、最後のときなのに」
ノノがハンカチで手を拭いながらお手洗いから戻ってきた。
サッと時計を見ると、午前零時の十分前を示している。こうやって時計を見ている間もカチカチと確実に時は進んでいく。
僕は彼女が鞄にハンカチをしまい終わるのを見計らって、声を掛けた。
「ねえ、ノノ」
「うん?」
ノノは鞄から顔を上げた。
「別れようってなったのは、僕が桃上さんと遊園地に行ったからだよね」
僕は今しかないと、前々から気になっていたことを訊いてみた。
僕にはあの日からなぜノノが別れたがったのか分からなかった。僕たちの間に大きな喧嘩もなく、関係は実に良好だったからだ。
今日までの一か月で理由が分かるだろうと思ったけれど、今のところさっぱりだ。あの日からノノの態度が急に変わったということもないし、僕の気持ちもまた同様だった。本当に明日から別れ別れになってしまうのか疑うぐらいだ。
「違うよ」
ノノは至って平然とそう答えた。
「それがきっかけだけど、原因じゃないよ」
「え?」
僕は目を丸くした。
すると、ノノは話し出した。
「実はね、あの日から一週間ぐらい前にバイト先の先輩にご飯に誘われたんだ」
ノノは微笑んでいる。
「とても仕事ができるから尊敬していて、たまたま好きな本も同じで話が合って。単純に仲良くなりたいなって思ってた」
「思ってた?」
「彼氏がいるからって断ったんだ」
「行ってきたって僕は何も……」
「うん、分かってる。でもね、わたしがそんなこと言いたくなかったんだよ」
ノノはつうっと指で反対の手の甲を撫でた。
「どういうこと?」
僕は彼女の顔を下から覗くように見た。
すると、彼女は上目遣いになって顔を上げた。
「恋人は相手を縛る特権を持った人じゃない。ただ大切な人って意味なんだよ」
彼女は僕に説くようにそう言った。
「距離が近いように思えるけど、所詮は他人なんだと思うの。だから、相手のやりたいことは尊重しなきゃいけないし、自分のやりたいことを相手のために潰す必要はないと思う。わたしたちも最初はそうだったでしょ。というか、自分のやりたいことがナギくんのやりたいことでもあったし」
「まあ、確かに」
デートも旅行も我慢した覚えはない。
「でもさ、環境が変わっちゃったんだよ。ナギくんはゼミで桃上さんに会ったし、わたしはバイト先で素敵な先輩に出会った。そうすれば、互いに視野が広がるのは自然なこと。それに」
「それに?」
「互いに欲が出たんだと思うんだよね」
「欲」
「相手にこういてほしいっていう欲。ありがちな気持ちだけど、それを相手に求めるようになったらダメだよ。所詮は他人で、決して自分の所有物ではないから。でも、わたしは自分であなたの所有物になりにいった。単純に仲良くなりたい先輩とのチャンスを彼氏がいるからって断って。そうしたら、偶然そのすぐあとにナギくんもわたしじゃない別の人と遊びに行ったことを謝った。わたしに言うべきだったって。だから、そのとき悟ったの」
つまるところ、僕たちは知らず知らずのうちに相手からの縛りを感じていたのだ。
確かに最近、桃上さんと会うとき、いつも背後にノノを感じていた。これやったらノノは嫌かな、桃上さんとのことバレないよねと常に思っていた。やましいことがあるわけではないのに。恋人だから当然だ、と。
でも、確かにそれは縛りである。恋人は最優先にすべき、例え自分を犠牲にしても。そんな常識を理由にした拘束。恋人だって人対人なのだから、そんなのワガママであるはずなのに。
「ありがとう。教えてくれて。すっきりした」
「いいえ、こちらこそ訊いてくれてありがとう。わたしも別れる前に言いたいって思ってたから」
「そうだったの?」
「だって、もやもやを残したくないじゃない。そのためにきっかり別れる日にちまで決めていろいろなことをやってきたんでしょ」
ノノはテーブルの上に乗った僕の両手を包むようにして繋いだ。
「わたしはナギくんが好き。きっと日付が変わってからも。だからこそ、未練なんて残したくないんだ」
そのとき、ノノの頬を一筋の涙が通った。照明の光を受けてきらきらした雫がつうっと落ちていった。ダイヤモンドみたいな美しい涙だった。
でも、ノノは笑っていた。僕の好きな顔だった。
カチ、カチ、カチ、カチ。時計は均等な速さで動いている。
「じゃあ、そろそろ」
そう言うとノノは手で頬を拭いながら立ち上がった。
「じゃあ玄関まで」
僕も腰を上げた。
「あ、そうだ」
鞄を持ち上げたノノが僕の方に振り返る。
「もう大学で会ってもノノって呼んじゃダメだよ」
「分かってるよ。君こそ、ナギくんって言わないでね」
「当然」
ノノはにこにこして言いながら鞄を肩に掛けた。
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