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「ということで、一年で一番過酷な三週間が今年も始まりますが、今年は戦力も増えたからね。英語科以外も雑用にバンバン使ってもらって、仕事を分散しましょう」
「だって。頑張れ期待の新人」
小学生担任の新井が、隣に設けられた仮設デスクで背中を丸めている「新人」の背をばしりと叩く。新井は小柄で高校生とも間違われる童顔の職員だが、趣味でボクシングをやっているらしいので、あれは相当痛いだろう。
「程々でお願いします~」
「実際やることかなり多いぞ。まあその分授業は少なめにしてやったから頑張れ」
英語科の畑山もからりと笑う。清白は会話には加わらず、表情も変えず、配布された時間割表の自分の名前にマーカーを引いていた。職員は各教科ひとりずつ、アルバイト講師は「新人」を含めて五人いるが、社会科は清白ひとりなので授業の量がえげつない。まあ、毎年のことだ。
新人をいじる流れが一通り終わったのを確認して、室長の澤田が声を大きくした。
「我々にとっても本当にしんどい三週間だと思うけど、一番頑張ってるのは生徒だからね。生徒の前では疲れたとかしんどいとか言わないように、笑顔で、励まして。それだけは気を付けていきましょう」
一同がうなずく。その言葉で、夏期講習前の最終打ち合わせは散会になった。明日から、怒涛の夏が始まる。今日だけは誰もがあまり残業をせず早く帰宅する。清白も、急ぎの案件だけを済ませたらすぐに自席PCの電源を落とした。
「お先失礼します」
「はーい。明日からよろしく」
荷物を手にしてデスクを離れる際、清白の席と隣の席の間に設けられた仮設デスクでまごまごと帰り支度をしていた背中を、ぽんと一撫でして通り過ぎる。他のだれにも気づかれていないことを祈りつつ、事務室を後にした。
駐車場までの短い距離を歩く。信号を渡って、コンビニの前を通り過ぎて、踏切を越えたらX会が丸ごと借り上げている駐車スペース。残っている車は清白の他に二台しかない。
自分の軽自動車に乗って、エンジンをかける。そのままシートにもたれて天井を見上げた。少しだけ緊張している。少しだけ。何か気を紛らわすものがほしい。帰りに酒でも買って帰ろうか。いや、未成年の前で飲むわけにもいかない。
ふう、と小さく息を吐いたとき、助手席のドアが開かれ、素早く黒い姿が乗り込んでくる。
「お待たせしましたぁ」
「遅い」
ドアが閉まる。そちらを見ることもせずに、車を出した。長居はよろしくない。
車道に出て、交差点をふたつ曲がって、赤信号で止まったところでようやく横を見た。
初々しいスーツがよく似合う及川は、シャツの袖で額の汗を拭いているところだった。ハンカチを持ち歩くという習慣を教えなくてはならない。汗で少し額に貼り付いた髪は茶色に戻ったが、相変わらずの癖毛でふわふわと遊んでいる。
「コンビニ寄るぞ」
「はーい。アイス買ってもいい?」
「俺も食べるから箱にして」
「了解」
やり取りが小慣れてきたのが気恥ずかしい。コンビニで遅すぎる夕食とアイス、飲み物など少なくない量を買い込んで再び走り出した。
「明日はそのまま俺の家から行くか?」
「そうしていい? 朝早くてびっくりしちゃった」
「どうせそのつもりで着替えも持ってきているんだろう」
「えへ。ばれた?」
鞄が妙に膨らんでいることには、及川が出勤してきたときから気付いていた。泊まる気だな、と悟ってしまってからは仕事中も気が気でなかったというのに。
(泊まるってことは。つまりそういうこと、かと思ったんだが)
ハンドルを握る手に汗をかく。及川はコンビニでアイスと弁当以外何も買わなかった。そのつもりはないということだろうか?
だとしたらひとりでこんなことを考えている自分がひどく恥ずかしい。
「家の人にはちゃんと言ってきたんだろうな」
「もぉ。いつまで子ども扱いなんだよー。大丈夫だよ、俺意外と信用あるから」
「……実際何て言って来てるんだ、親御さんに」
清白の声のトーンが変わったことに気づいて、及川は炭酸飲料のペットボトルを開栓しようとしていた手を止める。彼は大切な話をするときに「ながら」をしない。何をしていても手を止めて、一度はこちらの目をしっかりと見る。そういうところが、好きだなあ、と思う。
「本当に心配しないで。今日のところは同じ大学の友達の家に泊まるって言ってあるけど、いずれ先生のこともちゃんと言うから」
「別に……無理に言わなくても」
「ううん。言うよ」
赤信号で停車。今日は随分と引っかかる。ハンドルを握った手に、上からそっと重ねてくる手がある。熱い手だ。少し汗をかいている。不愉快さは、さほど感じない。
「今はまだ、先生と生徒って関係だった時からそんなに期間が経ってないじゃん? だから親もさすがにびっくりしちゃうと思うんだよね。でもいつか、俺がもっと先生と対等な関係になれたってはっきりしたときには、必ず言うよ」
信号が青に変わる。及川の手が離れていって、アクセルを踏む。
清白が考えていたよりも何倍もしっかり考えていたので面食らってしまった。本当に、もう子どもではないのだと思い知らされた。
「大切な人だってちゃんと言いたいんだ。先生に関することはひとつも妥協したくない」
視界が滲みそうになるのを、唇を噛んで耐える。ほしい言葉のど真ん中をくれる彼の言葉が嬉しくてたまらないなんて、自分も随分女々しくなったものだと思う。
「大丈夫だよ。前にも言ったでしょ。俺のやりたいことを最優先してくれる家族だよ。俺が一番大好きな人のことも、分かってくれる」
「……わかった。信じてる」
「うん。大好きだよ、先生」
「うるさい」
なんだかあちこちが暑い。エアコンを強めながらハンドルを切る。軽自動車はやや乱暴に、清白のアパートの駐車場に滑り込んでいた。
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