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「先生とえっちしたい」
清白アスカ、二十八歳。大手学習塾X会に勤めて五年になる。生徒から突拍子のないことを言われるのも慣れたし、男子生徒が品性を欠いた言動を飛ばしてくるのも茶飯事であるし、ごくごく稀に女子生徒から「好きです」と好意を寄せられることも、まあ、何度かあった。大抵のことならばいちいち動揺しないし、上手く躱すことができる。
だが、それらの要素を全て練り混ぜてミキサーにかけて押し固めたような豪速球かつ変化球を投げ込まれては、さすがの清白も内心うろたえた。思わず取り落としそうになったボールペンをぐっと握り直して、向かいに座る相手を見る。
張りのあるライトブルーのシャツ、グレーのネクタイ、薄いけれど広い肩、少しだけ茶色く染めた髪はうねりがあって長めだが、清潔感を欠いてはいない。細めの一重の目は愉しそうに弓なりになっていて、それが眠たげな猫を連想させる……というか顔の問題ではない。男だ。机をひとつ挟んで差し向かいに座るこの生徒は、男子生徒だ。そして清白も男だ。
動揺はわずか二秒。平静さを取り戻した清白は、愛想がないと常から言われる能面を崩さないよう努めながら、極力尖った声を出した。
「誰のことだか知らんが下世話な話は同級生としろ」
怒気と冷気と凄味を孕んだ清白の声に、しかし目の前の男子生徒は一切動じない。どころか細い目を更に細めて、ニコリと人好きのする笑顔すら浮かべてみせる。そして、まるで講師が物分かりの悪い生徒に言い聞かせるかのように、ゆっくりと繰り返した。
「先生って清白先生のことに決まってんじゃん。俺、アンタとえっちしたいって言ってるんだけど?」
ピシ、と清白の額に青筋が浮く。悪ふざけか、冗談か。もしくは罰ゲーム。相手はニコニコニコニコと笑うだけで意図が読めない。清白は不愉快を隠そうともせず、盛大に溜息をついた。そして眼鏡の奥の瞳をキュウと細めると、相手を鋭く睨みつける。
「おもしろくもないギャグを考えている暇があるなら、歴代首相の名前でも覚えてろ」
そもそも授業の終わったこの時間に狭苦しい個別指導室でふたりきり差し向っているのは、この生徒、及川の模試の添削をするためなのだ。成績は中の中であるはずの彼の、日本史の出来なさは群を下の方に抜いている。先月の塾内模試でワースト二位という快挙を成し遂げてしまったがために、日本史担当の清白がこうして面談と添削をするよう言い渡されたのである。その事実をどのくらい理解しているのかは知らないが、生徒は清白の暴言にもめげずに相も変わらずニコニコするだけである。
「そんなつれないこと言わないでさあ。何ならキスだけでもいいですよっ」
だけ、とは。昨今の高校生はキスを随分ハードルの低いものと考えているらしい。じ、と及川の様子を観察する。染めた髪といい、先生と呼ぶべき立場の清白に対する口調といい、この舐めた態度。成程、遊び慣れた人間の匂いがする。
及川を睨みつけていた視線を手元の紙面に落とす。赤の斜線が乱舞した解答用紙。叩きつけるように、机の上にバサリと広げてみせる。
「俺の反応を見てからかうつもりなんだろうが、そんなものよりこっちの現実を見たらどうだ」
「からかうなんてしないよ!」
途端に及川はニヤニヤとした笑みを引っ込めて、身を乗り出してきた。その分清白は椅子を引く。
「俺、本当に先生のこと好きなんだけど」
予想外の言葉と剣幕に、清白は眼鏡の奥で目を瞬かせた。だがすぐに、苛立ちが再び頭をもたげる。好きだとかキスだとかセックスだとか。そういうセンシティブな話を軽く扱う人間に対する生理的な嫌悪から、背中がむず痒くなった。
「いい加減にしろ。冗談にしても不愉快だ」
「先生怒ってる?」
「ああ。かなり」
「じゃあごめんなさい」
そう言うと、及川は机に額がぶつかりそうな勢いで頭を下げる。不遜な態度で下世話な話を向けてきたかと思えば、突然このしおらしさ。緩急が烈しすぎて清白の理解がついていかない。どんな反応をしたら良いか分からず黙っていると、頭を下げたまま及川がぼそぼそと弁解を始める。
「本当は先生に告白したいだけなんです」
その声音が妙に真剣で戸惑ってしまう。が、騙されてはいけないと自分の中でもうひとりの自分が警鐘を鳴らす。愛想が悪く厳しいと評判の自分が、講師として生徒に好かれていない自覚はある。この生徒の言葉を真に受けたが最後、指導室のドアが開いて高校生たちが笑いながら飛び込んでくる――。そんなところだろうと高を括るが、今のところ廊下はひっそり静まり返っているし、顔を上げた及川は眉間に皺を寄せて、ひどく真剣な顔をしていた。これが演技ならば大したものだ。
「ほら、段々ハードル下げていくとオッケーしてもらいやすいみたいなやつ、あるじゃん。まあ別にヤリたいってのも嘘じゃないっつーか、本音っていうか、本願なんですけど」
嘘のほうが良かった。
「先生のことが好きなんです。ふたりきりになれるチャンスなんて今しかないから、どうしても伝えたくて」
「……それを言って俺にどうしてほしいんだ」
「えっ?」
きょとんと及川の目が丸くなる。そういう顔をするとひどく幼く見えた。
「どうしてほしい……とか考えてなかったなぁ。ただ言いたかったというか」
呆れた溜息をつくのが抑えられない。終着点の見えない会話は不毛だ。とっとと切り上げてしまおうと口を開く――よりも前に、及川がパンと両手を胸の前で合わせる。
「していいならキスしたい」
「いいわけあるか」
「あ、そうだ。日本史で一位とったらキスさせてくれるってのはどうですか?」
日本史で、一位。言葉の意味を掴みかねる。前回の成績が下から二位で、偏差値が四十を下回っていた及川が。一位。ようやく彼の言った意味を理解し、鼻で笑う。
「やってみろ。できるものなら、な」
それは清白にとって「できもしないことを言うな、クソガキ」と同意であった。そう言えばよかったと後悔するのは、何週間も後の話だが。
生徒は、意外にもその一言に喰いついた。
「本当ですかっ」
及川が急に立ち上がったため、彼の座っていた椅子が後ろに倒れて激しい音を立てた。いくら防音室とはいえ、今のは外にも響いたのではないだろうか。心配する清白には構わず、机に手をついて及川が身を乗り出してくる。顔が近い。清白は背中を仰け反らせた。
「俺、先生のために超がんばります」
細めの瞳を大きく見開き、キラキラと光をたたえながら見つめてくる。その剣幕に清白は圧迫されそうになった。指先で弄んでいたペンが今度こそ滑り落ち、机の上でカンッと高い音を立てる。
「……言っておくが、この校舎で一位じゃないぞ。全塾内で一位だ」
「はいっ」
簡単に言ってのけるが、X会は関東中に教室をいくつも有している。生徒は高三だけで五百を超えるのだ。偏差値三十七の男が一位を取れるわけもない。
「絶対ですよ。約束ですよ」
最早、はぁ、としか返せない。その生返事を受け取るや否や、一秒でも惜しいと言わんばかりに及川は指導室を飛び出していった。
清白は開け放たれたドアの外にそっと顔を出す。廊下に人の姿は見当たらない。たった今飛び出していったばかりの及川の背すら見つけられず、階段を駆け下りていく喧しい足音が響いてくるのみだ。
「……ドッキリじゃなかったのか」
もしかして、本当に本気の告白だったのだろうか。
今更可能性を見出してみても、問い質すべき当事者は駆け出していってしまった。清白は深く深く溜息をついて、用の済んだ指導室の明かりを消した。
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