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恐る恐る、手が伸びてくる。乾いた指先が頬に触れる。細い目を更に細めた顔が近づいてくる。強く目を瞑った瞬間、柔らかく、唇と唇が重なった。
交わりは一秒にも満たない。そっと離れていく気配を追って、目を開けた。じっと及川の顔を見下ろす。特に二枚目というわけではないが、目が細く、常に笑っているようにしなっているため愛嬌がある。黒髪も見慣れたら馴染んできた。受験のために眉が見えるくらい短くした前髪が、幼くて可愛い。
「……ありがとう。させてくれて」
ぽろ。
眠たい猫のような目のど真ん中から、大きな水滴がひとつ零れ落ちる。だけれどその一粒だけだった。及川は、次の瞬間には目を細めてくしゃりと笑った。
その笑い方が、好きだ。元々細い目を思い切り細めて笑うものだから、黒目がほとんど見えなくなる。その分、全部が上を向いた睫毛が瞼で点々と気を付けをしていて可愛らしい。及川はよく笑う。つられて清白も笑った。
観念することにした。どんな理論や定理をもってしても否定ができない。この存在を愛おしいと思っている自分がいる。好きだと全力で求めてくれる思いに応えたい気持ちがある。
及川のことが好きだ。彼と一緒にいたい。
「お、俺からも……していいか」
「へっ?」
「駄目なら……」
「だ、だ、だ、ダメなわけないよ! ハイ!」
目を瞑って、ぐっと顔を突き出してくるのが必死すぎて笑ってしまう。そのおかげで少しだけ緊張がほぐれた。慎重に、顔を下ろす。他人の匂い。少し緊張はするけれど、大丈夫、怖くはない。斜めに傾けた顔を、静かに及川の顔に重ねた。
二度目はさっきよりも感触が伝わってくる。柔らかい。あたたかい。やや乾燥している。
「ね、嫌じゃなかったらでいいんだけど……舌、出せる?」
触れたか離れたかギリギリのところで及川が言う。
舌。少しだけ身が固くなる。一秒の逡巡の末、清白はそっと口を開けて、先端だけ舌を覗かせた。
及川の舌が、触れてくる。
さすがにビクリと体が揺れてしまった。目を瞑ってこらえる。及川は、上から、下から、清白の舌を撫でまわす。少しずつ、少しずつ上へと上がってきて、ついには唇の間から口中に侵入。舌の表面をゆっくりとなぞられ、そのまま上顎をつたって今度は引いていく。裏筋、同じように奥まで入り、下顎をたどって、歯の裏の硬いところを左右に横断。
刺激が強すぎる。縋るものがほしくて、及川の二の腕を両手で掴んだ。
「ん、……んぅ」
声が漏れてしまう。ぞわぞわとしたものが喉に走るが、不愉快からではない。ならば気持ちいいのか、と言われるとそれは分からなかった。ただ、ひどく頭がぼうっとする。及川の舌が優しい速度で動くたびに、控えめに濡れた音がした。
「ん……ぁ」
引き抜く間際、先端が下唇をなぞっていく。その感覚に清白の背が震えた。
「……駄目だよ先生、それは」
「あ……?」
及川は左手で清白の肩を強く押し、右手で自分の顔を覆った。隙間から見える頬や、耳朶が真っ赤だ。
「なんつーえっちな顔してんの……」
「は、はあ?」
余韻も何もない。藪から棒にとんだいちゃもんをつけられて清白は眉間に皺を寄せた。顔が赤いのが伝播してきてしまう。
「あーもーだめ。俺やっぱ先生のこと好き。好きすぎて馬鹿になるくらい好き」
「お前は最初からそんなに賢くないから、大丈夫だ」
「はあ~? 嘘ぉ。塾の先生の言うこととは思えないんですけどぉ」
「もう生徒じゃないからな」
ぴたり。音が鳴ったのではと錯覚するほど露骨に会話が止まる。及川は下を見て、上を見て、清白を見て、そっか、とこぼした。
国立大学の二次試験が終わると同時に、高校生は塾を卒業している。その一か月後には高校そのものを卒業したはずだ。
及川はもう清白の生徒ではない。
この空間にはただ、ひとりの男と、その男を好きだと言う男がいるだけだった。
「え、じゃあ色々解禁?」
「待て色々って何だ色々って」
「だって、これで終わりってことないでしょ?」
肩を両手で掴まれる。跪くように屈んだ及川が見上げてくる。本当にあざとい。
清白は観念して目を閉じた。
「……お前が継続を望むなら」
「当たり前じゃん!」
次の瞬間には、全力で抱き締められていた。ふわふわの黒い髪が頬をくすぐる。怖くはない。息も苦しくない。清白もまた、及川の背中に手を回した。自分よりも広いのが憎たらしい。
「先生。好き。本当に好き」
「……うん」
「これからも好きでいていい?」
「ああ」
「何これ。こんな幸せでいいんかな俺」
「いいんじゃないか、頑張ったんだから」
「先生」
「ん」
「好きでいさせてくれてありがとう」
「……うん」
「これからも、よろしくお願いします」
「ああ」
頬に頬を寄せて擦り合う。よく晴れた春の空の下で寄り添うふたりの周りで、桜の芽が膨らみ始めていた。
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