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水曜日、三コマ目。週に一度の高校三年生の社会の授業で、清白は眩暈を感じた。
「……お前の席はそこじゃないだろう」
中学生は基本的に五教科全てを受講することになっているが、高校生の理社は任意受講となっていて、高三の場合は全体の四分の一ほど、十六人だけが受講している。つまり、少人数での授業なのだ。なので、今清白がこうして圧迫感を感じているのはおかしい。その原因は言うまでもなく、先日清白に『えっちしたい』とのたまった生徒、及川だ。及川は本来後ろから二番目の席であるにも関わらず、教卓の目の前、清白から距離にして五十センチほどのところに座していた。
「ええ? だって集中して授業受けたいんですもん」
などと、へらへらとのたまう。清白は手にしたボールペンを折ってしまうところだった。
「嘘つけよユズ」
「そんなキャラじゃねーだろおまえー」
周囲の男子生徒も冷やかしている。ユズ、とは及川のあだ名らしい。清白は彼の下の名前を正確に知らない。後で出席簿で確認しておこう。
「……自分の席に戻りなさい」
「嫌です」
ピシ、と。己のこめかみに青筋が走った音が聞こえた。清白は本来気が長いほうではない。
「及川、おまえ」
「生徒がやる気になってるんですよ、先生。お願い」
言葉に詰まる。やる気、とか意欲、とか。講師はそういう言葉に弱い。何より、清白は授業の段取りが狂うのが嫌いだ。本鈴が鳴ってからもう三分経っている。これ以上彼の説得に時間を費やしたくはない。
「……今日だけだぞ」
「やった!」
などと諸手を挙げて歓ぶ様がちょっと可愛らしいだなんて、決して思っていない。
清白は咳払いをひとつして、授業にとりかかった。まずは宿題のプリントを回収。まとめて最背面の席に置いたボックスの中に入れておくよう指示してある。清白の提出物に対する厳しさを知っているだけに、やってきていない者はいない。枚数だけを確認したら、生徒たちに今日やる箇所を指示し、テキストを開かせる。
「今日は百四ページの『脱亜入欧』のところから。まずは復習」
黒板に、素早く板書する。重要用語が入るところは適度な空白を開けて、何が入るのか予想しやすいようにヒントは簡潔に。板書の丁寧さと素早さにはちょっとした自信がある。今日の出来も悪くない。若干の満足を胸に振り返れば、妙にキラキラした瞳と目が合う。及川は異常に輝いた目で清白と、その背後の黒板を凝視していた。その視線にギクリとする。内心の動揺を悟られないよう、意識して硬い声を出した。
「まず、開国に際して日本が米国と結んだふたつの条約の名前は。周藤」
及川と似た雰囲気のちゃらちゃらした男子生徒は、しかし淀みなく答える。
「日米和親条約と、日米修交通商条約。さすがにジョーシキっしょ、先生」
「……それを先日の模試で間違えた奴がいるから聞いているんだが」
ちらり、と視線を真下に落とせば、及川はテキストを頭から被って隠れていた。教室に、ど、と笑いが起こる。因みにそのふたつは中学二年で習う項目だ。
「ではそのふたつの条約において、日本にとって不利であった点は大きくふたつ。それを……及川」
じぃっとその茶色い頭を見下ろす。及川はテキストの合間から、細いが愛嬌のある目をそうっと覗かせた。
「えっとぉ……」
条約名が分からなかった奴が内容まで覚えているとは思わないが、お前はこんなことも分からないんだぞ、と印象づけるには良い手だ。清白は授業ではなるべく生徒に重要事項を答えさせるようにしている。
「ナントカの自主権と、ナントカ裁判権」
「……川田。助けてやれ」
及川のふたつ後ろの席でくすくす笑っていた女子生徒にお鉢を回す。彼女は溌剌とした声で答える。
「関税の自主権がないことと、領事裁判権を認めたことです」
「結構。それに対して日本が朝鮮と結んだ条約が……」
黒板に黄色のチョークで重要事項を書き足していく。それを及川が真剣な顔でテキストの余白にメモをしだして、清白は瞠目してしまった。及川は不真面目ではないが、意欲のある方でもなかった。やることはやるけれど、必要以上はやらない。そんな生徒だ。それが、今は必死に清白の授業内容を逃すまいとかじりついている。それは異様な光景であり、その光景に清白は寒気を覚えた。
いや。いやいやいや。
日米修交通商条約も分からなかった人間が、模試で一位を取れるはずがない。X会の生徒は高校三年だけで関東中に五百人以上いるのだ。二桁の順位すら不可能に違いない。
そう己に言い聞かせているのに、体の奥底から嫌な予感がふつふつと沸いて出てくる。清白は極力教室の後ろのほうに視線を送りながら、五十分を乗り切った。
しかし、得てして嫌な予感というのは当たるものだ。
「はい、それでは成績検討会議を終わります。本日もみなさんよろしくお願いします」
教室長の一言で、六名の職員は各自の仕事へと移る。清白は自席に座したまま、資料を両手に硬直していた。
今年度第三回模試、校内受験者成績一覧、高等部。各教科の点数と偏差値、校内順位と塾内順位が記載されている。五十音順に並んでいるため、『及川』の名前はすぐに見つかった。
「ウソ、だろ……」
教科別得点の、右から三番目。『日本史』の欄には、この校舎で見たこともないような点数が記載されていた。
「いやー清白先生どんな教え方をしたんですか? あんなに日本史苦手だった及川が」
高校生を担任している山本が笑う。塾講師よりも山男が似合いそうな彼に背中をばしんと叩かれ、清白の眼鏡が机上に飛んでいった。それを拾うことも忘れ、清白はぼやけた視界の中で成績一覧の用紙を凝視していた。思い出したようにジャケットを脱いで椅子の背もたれにかける間も、目はそこに釘付けになっている。
『及川弓鶴 現文、六十五。古典、六十九。数、百三十八。英、百六十四。生物、六十。政経、五十一。』
ぱっとしない数字が並ぶ中、一番左の項目。
『日史九十八。偏差値七十四。校内順位一位。塾内順位、一位。』
足元にぽっかり穴が開いたような、という感覚を、清白はこのとき初めて味わった。
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