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「せーんせっ」  振り返らずとも分かる。今にでもスキップし出しそうなこの声音は、奴だ。奴しかいない。授業が終わるや否や爆速で教室を出たのだが、高等部のほうが終了が早かったらしい。首筋に鳥肌が立った。 「ちょぉっと日本史の質問があるんですけど……お願いできます?」  全ての授業が終わり、廊下は帰宅する生徒や自習室へ向かう生徒でごった返している。その喧噪の中にあって、彼の声は妙にクリアに耳に届く。清白は恐る恐る背後を振り返った。思いの外近い距離に立っていた及川は、これ以上ないほど満面の笑みを浮かべている。薄暗い廊下であるはずなのに、そこだけいやに明るい気すらしてくるから怖い。 「……中三の模試の添削がある」  一歩後ずさる。踵が階段の縁のゴム部分にぶつかった。及川は人懐こい顔をずいっと近づけると、元より細い目をキュウと細める。これが彼の笑い方なのかもしれない。 「せーんせ? やだなあ、教育者が約束破っていいんですかあ?」 「ぐっ……」  痛いところを突いてくる。及川は、歯噛みする清白ににっこり笑いかけると、「さ、行きましょ」と促してくる。仕方なしに降りてきたばかりの三階へ逆戻りする。テキストやチョークなど授業道具を入れたプラスチックケースの中で、筆箱に仕舞うこともできない多色ボールペンがカラリと転がった。  バム、とスライドドア特有の鈍い音を立てて入り口が塞がれる。次いで鍵をかける音までしたものだから、清白はもはや動揺を隠せない。閉塞感で息が苦しくなった。個別指導室と名前はついているものの、実際は空き教室をパーテーションで区切って机をふたつと椅子をいくつか並べただけの狭い部屋だ。おもに個別の補習や、面談などに使われている。成績の話などをすることも多いため、プライベートに配慮して防音仕様。先日もこの部屋で及川とふたり向き合った。そしてあのろくでもない話を切り出された。  そもそもはあまりに日本史の成績が振るわない及川に対して面談と補習を行うよう、高校生担任の山本に頼まれたがために、あんな要求を突き付けられてしまったのだ。そう思えば山本を恨む気持ちも湧いてくるというものだ。 「さーて、えっちしたいとは言ったものの、いきなりってわけにもいかないしどうしようかなあ」  壁際に寄せてあった机の上に鞄を投げ出しながら及川が言うのを聞いて、清白は耳を疑った。 「は? キスだけという話だろう」  ニタリと笑った及川の顔を見、己の失言に気づくが遅い。及川は大きく一歩を踏み出して距離を詰めると、顔に「しまった」と書いてある清白を見ては、それはそれは愉快げに笑った。 「ほほ~う? キスならしていいんだあ」 「よ、くない」  一歩後退るが、すぐに腰が机に触れる。二人で入れば狭さを感じるほどの部屋。しかも入り口のほうに及川が立っていて、ドアには鍵。逃げ場はないのだ。及川は清白を机に追い込むと、両脇に手をついてさらに退路を塞ぐ。人懐こそうな顔が目の前に来て、清白は仰け反った。こうして並ぶと、及川は清白より頭ひとつぶんも背が高い。己の背の低さと及川の背の高さの相乗効果が憎い。見下ろしてくる顔を直視できなくて下を向くが、そうすると今度は今にも密着しそうなほど距離を縮めた互いの体が目に入る。近い、近い――。首筋に、腕に、ぞわりと鳥肌が立つ。 「清白先生」  及川の声が、急に低くなる。目だけで見上げれば、及川の顔からは笑みが消えていた。 「俺、まじで頑張ったんだよ」 「あ、ああ……」  それはそうだろう。何せワースト二位からの首席だ。もし不正ではなく本当に努力した結果なのであれば、それは並大抵の努力ではなかったろう。いくら動機が不純だとしても称賛に値する。だがそれと、清白が彼を許容できるかということは別問題だ。 「信じてもらえないかもだけど、本当に先生のことが好きだから。だから頑張れた」  ね、と念押しして、俯いた清白の顔を下から覗き込んでくる。動悸が早まる。息が上手く吸えない。 「先生……」  及川の顔が迫ってくる。清白は机についた手を固く握り締めた。抑えようとしても体が震える。直視していられなくて目をぎゅっと瞑ったとき、唇にふっと吐息がかかり、及川が笑ったのだと分かった。
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