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「……やっぱダメか」  高校生の口から出たとは思えないほど、苦々しいものの滲んだ声だった。及川の体がそっと離れていって、ふたりの間に空気が流れ込んでくる。 「嫌なことしてごめんね。一応、確かめておきたくて」 「確かめ、って……何を」 「先生さぁ、人にさわられるの駄目なんでしょ」  心臓を鷲掴みにされたかのような錯覚に陥った。それは、清白が今まで誰一人にさえ告げたことのない、一番の秘密。 「先生のこと好きになって目で追うようになったらさ、何となく気づいたよ」  及川はわざとらしい大きな仕種で二歩後ろに下がる。そこまで距離を開けて、ようやく清白は自由に息が吸えるようになった。  肩で大きく息をする、その反応が何より顕著だ。及川の苦笑いが胸に痛い。 「先生はドアノブに直接さわらない。いつも袖で手をガードしてる。そのために夏でも長袖のシャツ着てる。授業中はまくってるけどね。それに生徒に物を手渡さない。どこかの机に置いて、取りに来いってスタイル。あと中三にハイタッチ求められたときも不自然に避けてた。不自然って気づいたのは俺だけかもしれないけど。それと……」 「もういいっ」  鋭い声で叫んで、清白は己のシャツの胸元をぐじゃりと握り締めた。これ以上聞きたくはなかった。自分の「異常さ」を語る、及川の声を。及川は慌てたように、困った顔で言葉を紡ぐ。 「ごめんなさい、追い込みたいわけじゃないんです。確かめたかっただけ」  悔しくて恥ずかしくて顔が上げられない。  及川の言う通りだった。清白は他人との物理的な接触が苦手だった。肌と肌が触れるのはもちろん、服越しに触れられることも、他人が触ったであろうものに触れることも。  誰にも知られたくなかった。なんでもない、という顔をして耐えてきた。 『さわれないって、何ソレ。俺らが汚いってこと?』  かつて浴びせられた冷ややかな視線に怯えながら、上手く隠してきたつもりだった。なのに、なのに。  目が泳いでいるのが自分でも分かる。自分で自分の体を抱くように、右手で左腕を強く握った。あからさまに動揺していますという無様な姿を生徒の前で晒すなんて。唇を噛む。視界の中の及川の靴先が一歩踏み出そうと動いたのにさえ、過剰にビクリと体を震わせてしまった。それを見たからか、たまたまか、その足は踏み出すのをやめて、すっと後ろに下がる。 「オレ、先生のこと好きだからキスしたい。スッゴイしたい。でも、先生がさわられんのも無理ってことも分かってる。だから、少しずつ慣れるってのはどう?」 「……少しずつ?」  顔を上げる。及川はこれまで何度もそうしたように、目を細めてニッと笑った。 「そ。少しずつ俺にさわることに慣れてもらって、最終的にチューできたらハッピー、みたいな」  そもそもなんで俺とお前がキスをしなければならないんだ、と抗議しかける。だが、最前列の席で必死にメモを取っていた及川の姿が脳裏に反芻されて言葉を飲み込む。清白のことが本当に好きだと言った及川の声が震えていたことを思い出す。  清白は目を閉じた。一度眼鏡を外して両目を手で押さえ、息を吐いて、かけなおす。横を向きながら顔を上げて、覚悟を決めた。 「……少し、ずつなら」  勿論キスまでさせるつもりはない。それは絶対に清白が無理だ。人の皮膚に触れることすらできないのに、キスだなんて。何より清白は成人した教育者で、及川は未成年の生徒だ。何をどうしてもあり得ない。  とりあえずはこの場を了承して、少なからず清白が譲歩したということに満足させるだけだ。そして時間をかけてうやむやにするつもりだった。だがそんな清白の思惑は知らず、及川は目尻を下げて破顔する。 「や、やったあ!」  無邪気な声が胸に痛い。ずい、と一歩距離が詰められるのをなるべく意識しないように努めた。 「じゃ、まずどこならさわれそう?」 「どこなら……」  目だけを正面に戻して、及川の体を足元から見上げていく。少し汚れた白と青のスニーカー、グレーチェックのズボン、脚が長い。ライトブルーの半袖シャツ、そこから伸びる腕は細いが男らしく節がある。手は大きい。何かスポーツでもやっていたのだろうか。果たして左利きだったか右利きだったか。  手を見る視線に気づいたのだろうか。左手が前に差し出される。 「とりあえず手つないでみる、とか」 「手……は一番無理だ」  人体の中で最も外界との接触が多い部位が手だ。誰が触れた何に触れたかもわからない。何が付着しているかも分からない。そして他よりも体温が高く、汗をかきやすい。手は、他人の部位の中でも最も触れたくない箇所だった。 「じゃあどこでもいいよ。腕でも足でも、それも無理だったら服でもいいし」  服……。  案外皺やヨレのないシャツを見る。今日も随分暑い。散々汗を吸っているだろうことを思えばシャツは無理だ。ならば。  清白は恐る恐る両手を伸ばした。及川の期待に膨らんだ痛すぎる視線を受けながらその手でそっと掴んだのは、ズボンと同じグレーチェックのネクタイだった。 「……ネクタイって」  やはり駄目だったろうか。清白としては大変譲歩したつもりだったが、これが一般的に「相手に触れた」ことにカテゴライズされないことはさすがに分かる。目を上げて窺った顔は、何とも言えない表情で笑った。眉尻と目尻をふにゃりと下げ、脱力したような笑みだった。 「何それカワイイ。超かわいい、先生」 「は、あっ? 十も年上の男に向かって可愛いって、あた、頭がおかしいんじゃないか」 「なんで。先生はかわいいよ。少なくとも俺にとっては」  及川の言葉にびっくりして、反射的に手を離してしまった。己の身体の前に持ってきた手のひらが、激しくドクドクと脈打っているのが分かる。自分から他人に手を伸ばすなんて、幼い子どもの頃以来かもしれない。胸がドキドキして止まらなかった。 「先生が触ってくれた。えへへ……」  及川は自分のネクタイを両手でぎゅっと握った。清白の手の感覚、あるいは温度を噛み締めている、のだろうか。あまりにいじらしいその様に、否が応でも理解してしまった。  及川ははじめから本気だった。  本気で清白のことが好きなのだ。 「先生。日本史の授業がある日、ここで俺に会ってほしい。そんで、先生のペースでいいんだ、少しずつ俺にさわって慣れてほしい」  はねつける言葉を清白はいくらでも持っている。いつまでも付き合っていられるか。最初の約束から馬鹿げている。本当にキスなんてするわけないだろう。大人をからかうのも大概にしろ。  だがどの言葉も喉奥につっかえて出てこない。邪魔をしているものの正体は、分かっている。 「ね?」  及川の駄目押しが、否定の言葉を全て喉奥から臓腑へ押し戻した。清白は深く息を吐くと、そのついでとでも言うように「わかった」と了承の言葉をこぼした。
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