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第7話 身代わりの人形
奥入瀬へのスケッチ旅行から、二年の月日が経ちました。あれから、年に一度はどこかへ旅行しながら絵を描くのが、遠矢と私の年中行事になりました。彼の制作活動は、私が知る中では、もちろん今が一番活発でした。それどころか、画家生活の中で最高と言って良いレベルだったようです。スケッチ旅行から戻った彼は、精力的に多数の作品を描き始めました。評論家からは、
「生命力に溢れた作風に進化した」
そう褒められるようになりました。幾つかのコンクールで賞を獲り、絵の注文も増え、個展なども開けるようになり、多くのお客様が来てくれるようになりました。遠矢が満足そうで充実しているのは、私にとっても嬉しいことでした。
「さあ、ダフネ。お疲れだと思うが、きみのマスターのために、もうひと頑張りしてくれないか?」
大成功に終わった個展の最終日、ギャラリーで行われる立食パーティーで、私は、弓美さんと一緒にお客様をおもてなしすることになっていました。おいらせの川の流れのような水色の薄い生地でできたワンピースを身につけた私がギャラリーに着くと、弓美さんは目を丸くして、ほめてくれました。
「まあ、ダフネ! とっても可愛いわ。まるで妖精みたいね。こっちは、他にもお手伝いしてくれる人がいるから大丈夫。遠矢の隣に立って、にこにこしてあげて。あなたがいれば、場が華やぐわ」
そうウィンクされ、私は、遠矢に手を取られ、お客様におずおずと笑顔を見せました。
「ほお。光崎さんも隅に置けませんな。こんな可愛らしいお嬢さんをパートナーにしておられたとは」
「こちらの魅力的な女性の肖像画を描いてごらんなさい。きっと買い手が殺到しますよ」
身なりが良く、好きな絵を買い集めることができる裕福なお客様たちは、こぞって私をほめてくれました。しかし、遠矢は困ったように首を横に振るのです。
「彼女はパートナーではなく、アンドロイドです。非常に精巧にできてはいますが。それに、プライベートを売り物にしたくないんです。彼女の肖像画を描くつもりはありません」
言葉や言い方は柔らかいものの、キッパリした表情に、お客様たちも、それ以上、私について言うことはありませんでした。
しかし、私の耳は、会場の隅のほうで交わされていた会話をも捉えていました。
「しかし、勿体無いよなぁ。これだけ画家・光崎遠矢の評価が高まった今、亡くなった奥さんの肖像画が市中に出てくれば、相当の値が付くだろうに」
「えっ、どこの画廊にも無いの?」
「本人が全部引き上げちゃったらしいよ。今は自宅にあるんじゃないか? まさか処分はしてないだろうけど……」
心無い噂話で、ショックな事実を私は幾つも知りました。
過去、遠矢には番がいたが、亡くなったらしいこと。
彼は、亡くなった番の肖像画を、たくさん描いていたらしいこと。
番の死と共に、悲しい思い出を封印するかのように、肖像画をしまい込んでしまったこと。
翌日、個展の片付けで遠矢は出かけて行きました。私は彼を見送り、すぐに家の中の探索を始めました。当てはありました。家の中で、私が唯一触らせてもらえない場所、納戸です。何かを隠してあるなら、ここに違いない。遠矢のデスクから持ち出した鍵の束から、見覚えがない鍵を差し込むと、カチリと錠前は開きました。
私の勘は当たっていました。そこには、遠矢の手による、たくさんの肖像画がありました。描かれているのは全て同じ女性です。その人はコレクションの中で、着実に年齢を重ねていました。私より少し年上だろうかという年恰好から、今の遠矢とほぼ同じ年頃と思われるまで。二人の間には、長い年月の積み重ねがあったのです。
たくさんのカンバスに描かれたその姿の優しさや筆遣いから、遠矢がその人を心から愛していたことが痛いほど伝わってきました。肖像画以外にも小ぶりのアルバムもありました。幸せそうな二人の写真が一杯貼られています。
何よりも私の心を抉ったのは、遠矢がかつて愛した人が、自分と同じ顔だったことでした。
……いいえ。私が、遠矢の愛した人のコピーとして作られたのでしょう。力を失い、へなへなと私は納戸の床に座り込みました。
「……ダフネ」
遠矢に声を掛けられるまで、数時間はそこに座り込んでいたようです。ずいぶん太陽が西に傾いています。私が静かに彼を振り返ると、彼は気まずそうに立っていました。
「私は、月子さんの身代わりなの?」
遠矢は、悲しそうな表情を浮かべて首を左右に振ります。
「じゃあ、何のために私を作ったの? どうして私を可愛がってくれるの? 私が大人になったら、私を愛してくれる?」
自分の声が震えていることには気づいていました。無理な質問をしていることにも。
「身代わりだなんて……。君自身が、私の大切な存在だよ。ただ、愛しているのは死んだ妻だけだ。ダフネのことは、娘のように可愛いと思っている」
遠矢はハッキリ言い切ります。彼に全く悪びれる様子がないことに、私は余計傷つきました。彼に対する私の好意は、犬や猫が飼い主を慕うようなものとでも思っているのでしょうか。私が、真剣に彼に恋しているなどとは、全く考えなかったのでしょうか。
この数か月間、私は、ずっと彼に対する自分の気持ちを理解しようと努めていました。知能や心が成長するほど、遠矢は私にとって、単なる所有者、単に衣住の面倒を見てくれる人としてではなく、一人の男性として心を寄せる相手になっていました。その気持ちが伝わらない、端から相手にしてもらえないことが何より辛く悲しいことでした。
(ああ……。この胸が痛いのは、失恋して『切ない』という感情なんだろうな)
「じゃあ、なんで月子さんと同じ顔の私を、遠矢のそばに置いてるのよ!?」
その時の私は、遠矢の家に来てから一番大きな声で叫んでいました。普段の話し声より、二十から三十デシベルは大きかったと記憶しています。
「私が決めたわけじゃない!! 月子が、あれが、自分と似たアンドロイドを死ぬ前に注文していたんだ!! 私に何の断りもなく」
怒鳴り返した遠矢の声は、悲鳴のように聞こえました。彼は、言い終えるや否や、『しまった』と、バツの悪そうな表情を浮かべました。売り言葉に買い言葉のように、とっさに出てきた言葉なのでしょう。しかも、言った端から後悔している態度こそが、今の彼の言葉が本心だと念を押していることに、この人は気づいていないのでしょうか。
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