第8話 恋の悲しみ

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第8話 恋の悲しみ

「……ダフネ。違うんだ。注文したのは確かに月子だが、けして君を歓迎していなかったわけじゃない。君と暮らして、私の毎日がどんなに楽しくなったか。君も知っているだろう?」  遠矢はあわてて言い訳し、私を抱き寄せようと腕を差し伸べてきましたが、私は後ずさりしました。思えば、私が彼を拒絶する態度を取ったのは、これが初めてでした。  私から避けられて、遠矢は、呆然としていました。ああ、彼は、やっぱり私が彼を男の人として愛しているとは、全く思っていないんだ。ペットの犬や猫、子どものように考えている。彼を愛している私に、『自分が愛しているのは死んだ妻だけだ』と言い切れるのですもの……。  そう考えたら、私の胸は押しつぶされたように痛くなりました。痛さをこらえようと顔をしかめたら、視界がぼやけてにじみ、私の目や頬は濡れていました。ぱた、ぱたぱたぱたっ、と夕立が始まるように、目や頬を濡らす水は次第に増えてきました。  遠矢が慌てふためき、おろおろしていることで、どうやら私は今、人間が言う『涙を流す』ことを初めて体験しているようだと気付きました。ためらいながらも再び私に腕を差し伸べようとした彼に、私は首を左右に振ります。走って納戸を飛び出し、自分の部屋に閉じこもりました。 「……ダフネ。ダフネ。なぁ、ここを開けてくれないか? さっきは無神経なことを言って、済まなかった。月子が注文したから君を引き取っただけだ、と思ったかもしれない。あんな言い方をしたのは、私が悪かった。本当にごめん。頼むから出てきてくれ。あんな悲しそうに涙を流すなんて……。顔を見て話がしたいんだ」  彼はしばらく、私の部屋の前でドアを叩き、訴えていました。しかし、私が何も答えず、ドアを開けようとしないので、諦めて自分の部屋に戻ったようでした。  遠矢がいなくなったことを確かめると、私は、そっと家を出ました。行く先の当てなど、ありません。元々世捨て人のような暮らしをしている遠矢と二人暮らしで、学校にも仕事にも行ったことがないのです。弓美さんや輝君、ラボの人たち以外、知り合いすらいない。ただただ、私は悲しくて、彼のそばにいたくなかった。  あてずっぽうに歩き始めた私は、今夜は星空だということに気づきました。 (奥入瀬で遠矢と見た星空は、きれいだったな……。山の中に行けば、もう少し星が見えるかしら)  私は、普段着のざっくりしたコットンウールのセーターとデニム、スニーカーを身に着けただけでした。少し寒いかもしれないけれど、内部ヒーターを強めて身体を温めれば何とかなるでしょう。私の身体にはソーラーパネルも付いています。明日晴れれば、太陽光でエネルギーを作ることもできる。そんな暢気な考えで、私は近くに見える山を目指すことにしたのでした。  涙に濡れた私の頬を、夜風が撫でると、ひんやりします。寒い、と目をすがめると、今度は星がにじんで見え、私は物悲しい気分になりました。  私には遠矢しかいないのに、遠矢の心には月子さんしかいないとしたら、一体この世界で、私は何のために、誰のために存在するのだろうと。  溢れる涙を拭うこともなく、私は泣きながら夜道を歩き続けました。数時間も経つと、足が重いような気がしてきます。ああ、これが『足が棒になる』というものか。人里離れた所に住む遠矢は、どこへ私を連れて行くにも車でしたから、足が棒になるほど私が歩くことは、これまでなかったのだということに気づき、また泣きました。当たり前のように思っていたけれど、彼は私を宝物のように可愛がってくれていたのだということに。  でも、それは、ペットか子どもでしかない。けして、私が望んでいたような、一人の女性としてではないのです。自分の望んだとおりに相手が思ってくれないのは、仕方のないことなのでしょう。なぜなら、人間を模して造られた私の人工知能ですら、『遠矢を好きにならない』という風には、自分で自分を制御できないのですから。  風が強く吹き始めた、と思ったら、あっという間に雨が降り始めました。しかも、これは、更に天気が悪くなるパターンです。慌てて、身を隠せる場所を探しました。大きな岩の陰が良さそうだ。急いで斜面を下ると、普段履きのスニーカーのせいで、私は滑って転びました。 「痛い……」  したたかに腰を地面に打ち付け、衝撃で首も軽くむち打ちになったようです。アンドロイドも、自分を守れるよう、人間と同様に、その身が傷みそうな場面では痛覚が働くように作られているのです。  雨に濡れた地面で、デニムも汚れ、濡れてしまいました。時折岩陰にまで差し込む雨で身体は次第に冷えていきます。私はすっかり惨めな気分で座り込みました。  私たちは自分を壊すことはできません。なるべく、自分を守る行動をとるようになっています。この天気と足元の中で他の場所に移動するよりは、省エネモードに切り替えて、天気が回復するまでここで待つべきだ、と私の人工知能は判断しました。人間なら身体を震わせて体温を維持しますが、私たちは、体温が下がっても壊れません。私はヒーターの温度を省エネモードに切り替え、どんどんと身体が冷えていくに任せました。思考も低下してきます。  私は、何のために、遠矢の亡くなった奥さんと同じ顔で、若い頃の姿で作られたのか。なぜ彼はその事実を私には隠していたのか。これまで、どんな気持ちで奥さんと同じ顔のアンドロイドと暮らし、可愛がっていたのか。  ぼんやりと私を見つめる遠矢が、時折、寂しそうだったり、悲しそうだったりしたことを思い出しました。 (ああ……、そうか。私を見て、月子さんを思い出して悲しくなっていたのね……。黒い服は、月子さんを(しの)ぶ喪服のつもりだったんでしょうね)  アンドロイドの基本プログラムは、天気が良くなったら少しでも早くオーナーの所へ戻れと私に命令します。でも、一人の女性として愛してくれない彼の所に、恋心を抱えたまま戻るなんて辛い。私は、アンドロイドのくせにプログラム通りに動かない自分自身に苛立ちました。私は不良品なんじゃないか、と思ったのです。 (もし私が不良品だと分かったら、遠矢は私を手放すのかしら)  彼と一緒にいるのは辛い。でも、一緒にいられなくなるのは、もっと辛い。どうしたら良いのか分からない。膝に顔を埋め、私は声を立てずに泣き続けました。結局岩陰で一夜を明かし、雨は小降りになって来ましたが、私は座り込んだままでした。
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