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三月の頭頃から咲き誇っていた桜は散り。すでにその身を新緑に染めている。以前は、黄色の菜の花も咲いていたのだが、彼らはいつの間にかいなくなっていた。
私は、あの桃色の可憐な花と、黄色の活発で愛らしい鼻の共演はとても好きだったのだが。もう、観劇することの叶わぬ演目となってしまったらしい。
「……」
過去の記憶と、今車窓から見えている景色との相違にほんの少し胸が痛む。
―なんてことはまぁ、ないのだが。あの色が見えないのは、残念には思う。思わなくもない。
けれど今は、それどころではなかったりする。私の視界に入るもの全てが、どうでもなくなってしまう程に、私はいま気が気じゃない。
今まで、何度となく走ったこの道なのに、まるで、不慣れな参道を走っている気分になる。剣山の上でも歩かされている気分というか。
「ふー……」
大き目の溜息が無意識に漏れた。気休めにと音楽をかけていたのに、その音すら耳に届かない。それほどに、体中が、全身が、緊張していた。こんな状態で運転していて大丈夫なのかと、自分に言いたくなるほどに。
がちがちで。
だらだらで。
どくどくしている。
「……」
ハンドルを回す手が、汗で滑りそうになる。手袋でもしておくべきだったか…。普段から、手汗が酷い体質なのだ。猶更、だったようだ。
―今日は、今日はことさら、必要だった。
「……」
今日。
そう。今日、というこの日が、私にこの緊張を強いている。普段の道すらおぼつかなくなるほどに。視界があやふやになるほどに。聴覚が、自らの心臓の音すら拾うことをやめてしまう程に。
「……」
今、私が向かっている先。それは、私の、新しい居場所。外で作られた、私の居る場所。
これまでの学校などの教育機関の代わりにできた、私の向かう場所。
―四月。私は、今日、この日から、新社会人というやつになった。世間一般で言う「新社会人」というやつが、いつからで、どういう定義をなされているのかは知らないが。
ともかく、四月一日の今日。私は、この不毛で生きづらそうな「社会」の「新人」として、生きることになった。
―赤信号。
「……」
実のところ、新しくできた居場所には、二週間ほど前に訪れていたりする。事前研修というやつで。これから私が働く、生きていく場所に。―その時も、こんな風に、毎日同じような状態になっていた。違う点と言えば、あの頃はまだ自車を持っていなかったので、自転車で向かっていたということぐらいか。
一週間。二週間前の、あの日から、一週間。通い詰めて、身体を、心を、慣らそうとしていた。
「……」
けれどまぁ、そんな簡単になれるものでもないわけで。簡単にいけばと、何度も願ったけれど、それほど虚しいモノはなかった。
私は、どこまで行っても私なのだ。小学校に入学しても、中学に上がっても、高校時代を終えても、大学生活を見送っても、社会人になっても。私は、私。変わりようはなかった。
いつまでたっても、臆病で、対人が苦手で、対他人が嫌いで恐ろしいのだ。
「……」
あの一週間。何をしに行っていたんだろうというくらいに。私はあの頃に戻っている。何も分からない、誰も知らない、経験も知識もない、そんなところに、放り投げられる―自らを自分の手で投ずる恐怖が、染みついたままに。その染色になれることもなく、違和感として残ったままで。今日を迎えた。
ふと、どうなのだろうと思う。こんな気持ちを、誰もが持つものなのだろうかと。この恐怖を語り合える人間は居るのだろうかと。私は、私と同じような人を見たことがないのだ。だから自分だけなのかと。自分だけが、自分の事をこんなにも追い詰めるようなやつなのかと。これを、分かる人間が居ればと、いてくれればと、今まで何度も思った。―居たところで、私は、私から救いを求める方法なんていうのは知らなかったのだけれど。けれど、同じような人間が―対他人の恐怖と、無知のままに身を投げる恐ろしさを、知る人間が、居るというだけで、案外救われたりするのだ。
「……」
ま、見つけられなかったから、探さなかったから、今、こんな風になってしまっているのだが。
身体は、ボロボロと、ガタガタと、崩れているのだが。
「……」
徐々に呼吸がしづらくなっている。喉を、外からも内からも圧迫されているような。絞められていくような。呼吸器官を、ことごとく止めてやろうかというような、何かの圧。
こめかみを釘で刺されているような痛みが襲う。ズキズキと。一定の速度を保ったまま、深々と釘を撃ち込まれていく。
―そんな、気がしている。
「……」
そう―どれもこれも、気のせい。勘違い。被害者ぶっているだけ。自意識過剰で、考えすぎ。ただそれだけ。
それだけなのに、これほどまでに実害をもたらす。
息は止まりそうになり、頭痛に伴い、吐き気を覚える。
「……」
これだから。こんなになるから、嫌なのだ。
自分が。
社会が。
生きる環境を変えることが。
いつだって、そうだ。学校が変わるたびに、学年が上がるたびに、私はいつもこうなっていた。いつまでたっても、その恐怖に体が異常をきたす。やめろと警鐘を鳴らす。引き返せと、サイレンを響かせる。
「……」
新社会人だと言われて、大人になったつもりでいた。それまでと違う自分になったと勘違いしていた。今日から私は変われるのだと、思っていた。
けれどやっぱり、私は私で。私という人間でしかなくて。新しい称号を与えられたところで、何も変わりはしない。自分から変わろうとしない限り、何も変わらない。
「……」
それでも。
それでも、どうにかしようと、足掻いてきた。そのたびに、這い上がろうと、必死になったりした。それで、成功したのかと言えば、そうでもないが。失敗もしたせいで、なおの事恐怖を募らせていたりもしたのだけれど。
「……」
しかし、それら全てが無駄ではなかったのも、確かで。
だからこそ、私は逃げなかった。
逃げるという選択肢を、選ばなかった。
その選択を取捨の中に入れなかった。
それだけでも、めっけもんだと自分に言い聞かせ、なんとか、ここまで進んできた。
「……」
だから。
今回も、私は、進むのだ。
止まることはしない。
逃げることはしない。
―それこそ、私は、私ではなくなる。
「……」
私は、私で。
ほかの誰でもなく、私で。
対人恐怖がいつまでの治らないのが私。
日々自分の心を削りながら、進むのが私。
どれだけつらくとも、社会に、生きる場所に、自分に、しがみ付くのが、私。
―それが、私。
「……」
いつまでも、子供じみていて。社会人になろうと変わらなくて。
それまでつけていた称号を、付け替えただけの私は。
―青信号
今日から私は、「新社会人」として、私を生きることになる。
不安も、恐怖も、緊張も。
呼吸困難も、頭痛も吐き気も。
それらは、これから毎日のように訪れるだろう。―けれど、今までと変わらない。
それが、私で。
そういう生き方をしてきたのが、私。
だから私は、私を生きる。
今日からの、私を。
今日も、これからも。
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