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きちんとしている女性だという杏里の直感だった。
「杏里さん、試すようなことを致しました。お許しください。彼女を大事にしてくれる妻でなければいけません」
彼まで土下座に近い形で、手をついて頭を下げてきた。
美紗も彼もおなじ気持ちを持ち合わせていた。彼を大事にして、彼女を大事にして欲しい。
ここで嫌な気持ちになって、老舗企業四代目という資産家の男との最高の縁談を断る女性も幾人もいたはず。
『嫌な男と愛人だ』と嫌われたならそこまで。でもこうして涙を流して頭を下げてくれているのは、きっと杏里が初めてだ。
傲慢な跡取り息子に愛人がいて嫌な対応をする当主にはよくついて回る噂よりも、涙を流して二人で頭を下げたなんて噂のほうが当主としては不都合なことだろうに……。
「いつも、このようなことを、お見合い相手にされてきたのですか」
二人が『はい』と答えた。杏里の胸の中にますます怒りのようなものが湧き上がった。
「いままで、樹さんに選ばれたと期待させた女性を、散々不愉快にさせたり傷つけてきたと思いますよ」
『重々承知だ』と杏里の目の前で正座をし、夫婦のように頭を下げている二人が一緒に答えた。結婚して嫌な思いをさせるぐらいなら、ここで傷ついて引き返してくれたほうが、その女性の今後のためと思ってのことなのか。
言ってみれば自分たちが汚名をかぶり悪役をかって出ているわけだった。そこに妙な優しさを杏里は垣間見てしまう。
ああそうか。彼等はもう夫妻なんだ。つまり……、妻とは言われながら杏里はこれから『妻という名がある、子供を産むための愛人』になるんだと悟った。それが見えたら、いままで樹に対し構えていた力が抜けた。
その日は、愛と恋を拗らせてしまった樹と彼女と別れた。
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