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『先日は大変失礼いたしました。お詫びにもう一度お会いできますか。これが最後でもかまいません』
そんな彼からの呼び出しに応じた。
この日も『あなたしかいない』と頭を下げる美麗な男性を目の前にして杏里は答える。
「わかりました。よろしくお願いいたします」
結婚を受け入れた杏里に、彼が非常に驚いていた。
「今日までに樹さんとはいろいろお話ししてきました。いままでの私のことも……、あなたのことも、美紗さんのことも。私は愛よりも安定した心が安まる『居場所』がほしい」
そこには口うるさい父と縁を切りたいぐらいの気持ちが含まれていた。実家から遠ざかれる安泰の居場所が杏里の願いだ。そしてその居場所は父が口出ししにくい近寄りがたいところがいい。特に世間体を気にする父のことだから、地元の老舗企業の家へ嫁ぐことは体裁的には納得してくれるだろう、この結婚は。そんな打算が杏里にはあった。
そんな『打算』があってこそ杏里が承知したことは、樹にも通じると思っている。だから彼もすぐに安堵した顔にほぐれていく。
「もちろんです。美紗もそれは心得ています。妻として母親としての生活は保障し、決して邪魔はしないと心に決めています」
「美紗さんに伝えてください。私は子供を産む役割を請け負った愛人だと。あなたとの男と女の関係も子供が出来るまでと致します。以後は妻として母として努めます。あとはお二人でいままで通りにお付き合いください」
今度は彼が頭を垂れたまま、まつげを震わせていた。彼女を手放さなくて良い――、杏里にはそう見えた。
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