5116人が本棚に入れています
本棚に追加
樹の物腰がよかったのもここまでだった。
その日、食事を終えると強引に一室へと連れて行かれた。
でも。彼の顔は怖くもなく、これまで杏里が見てきた余裕の笑みで常に息だけの柔らかい声で杏里に囁き、ゆっくり優しく、杏里の思考も身体も諭していった。
危うくも杏里はときめきを覚えそうになって、必死に堪えた。
恋をしたら寂しくなる、自信がなくなる、不安になる、辛くなることが多くなる。決して、この夫になる美しい男に恋をしたら駄目……。
「杏里、杏里、……杏里さん」
うっすらと目が覚めると、素肌のままブランケットに包まれていた。
「朝だ」
樹の声がすぐそばで聞こえた。素肌のままで目覚めた杏里のすぐ隣にいる彼も裸だった。
杏里の乱れた黒髪をそっと指先ですいて撫でながら、彼が黒髪にキスをした。
「一緒に風呂でもどうですか。湯も張ってあるんですよ」
物腰のよい彼に戻っていた。その彼がまだ杏里の黒髪を撫でている。
……美紗はどのような気持ちで夜を過ごしたことか。
「うっ」と、涙が溢れてきた。本当にこれでいいのか。これで彼と彼女と生きていけるのか。取り返しのつかないことをしている複雑な痛みが襲ってくる。
「杏里さん、強引だったのは謝る。でも……、」
でも、決して悪い一夜ではなかった。彼がそう言いたくても、相手の女が泣いているので戸惑っている。
彼が言うとおりだ。むしろ人々がいう『甘美』を知ってしまった。
だったら。あの男はなんだったの。そう樹のいうとおり下手くそ。私の身体に何年も嫌な記憶を刻ませた下手くそ。本当に下手くそだったんだ。
最初のコメントを投稿しよう!