⑥蜃気楼の坂の上

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 彼は生き生き仕事の話をしてくれ、杏里も興味深く耳を傾ける日々。夕暮れに仕事が終われば、茜に染まる小樽運河の飲食店で食事を共にすることも多かった。  だが、彼と杏里は食事を終えると、運河の橋の上で別れる。  婚約をしている男と女なのに背を向け、それぞれが目指す家路は異なる。  彼は美紗のところへ。杏里は海が見えるマンションへ。  それがとても自然で、違和感はなく、なんの疑念もわかない関係。  そのドライな契約が心地よいのはどうしてなのか。  その日、初めて杏里は婚約者である彼へと、別れた道を振り返った。  あの人は、ほんとうに私の夫になる人なのか。私は妻になれるのか。愛人に甘んじた彼女はいまはどう思っているのか。  樹は男性としてはとても魅力的な人だ。  品格があって、向上心もあって、女性優位で物腰もやわらかく。それでいて男らしい雄々しさも携えて、若社長としても堂々としている。  杏里は忘れていない。あの一夜を、小樽湾の朝焼けを一緒に見た甘やかな朝を。杏里を女性として最上に愛してくれたあの一夜があるから、杏里はまだ女としての心を捨てずにすんでいる。  彼にときめきを覚える日も多い。でも、そんな彼のそばにいるだけで充分だった。  だって。恋をしたら孤独になるから。  妻でいい。彼の子供たちの母でいい。家業のパートナーでありたい。  女としての渇望は捨てる。それでいい。  あまりにも整いすぎて、波風もなく、綺麗に丸く収まっている。  心地が良すぎて、でも不自然なことには、いつか歪みが生まれないのか。そんな不安を心の奥に忍ばせて。  遠藤氏を親方に据えた『大澤ガラス工房』の創業は、この一年後となった。
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