⑧穏やかに淡くなる

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 それがあったから、義母の江津子が見初めてくれた。  大澤家の『妻』という役割を穴埋めする要員のようにして選ばれた。でも杏里には好都合だった。契約にしても、夫になる男は出来た男で、義母も義弟も手助けをしてくれる。杏里にないのは『情熱的に熱烈に恋に落ちて女になること』。それを一生得ないかわりに、ほかのことに関してはすべて安泰の形で手に入れた。妻の座も、母としてのしあわせも、嫁としてのつつがない生活も、大事にしてくれる義実家も、女だがキャリアを積める環境も。  対して美紗は、最愛の男ただ一人と愛を重ねる日々を手に入れていた。  それでバランスが取れていると、この時の杏里は信じていたのだ。  だが『仕事をする妻』として『仕事に邁進した二十代が役に立った』と呟いた途端、美紗がまた辛そうにうつむいたのだ。 「美紗、さん……」 「私は、恋と愛に意地になってばかりの二十代だった……」  それぞれ苦心した生い立ちであるが、辿ってきた道が対照的だった。 「愛しているの、いまも。でもその色はもう濃くはないの。今日の海みたいに、ただただ広く遠く穏やかに淡く、それだけ……」  杏里は悟る。これはまた、わたしたちの岐路だ。  女三十代、少し過ごして若い時に信じていたものが少しずつ形を変えていく感覚。似たようなものを杏里も感じることがある。特に最近――。  側に置いているものが別でも、女ふたり、同じようなものを感じている日々。そこに男の樹はいない。  その日、美紗と初めて連絡先を交換した。  夫には知らせない約束、愛する彼には知らせない約束をした。
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