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「俺が、正妻と愛人としての関係を、いちばん最初に無理矢理に押し付けてしまったんだ。そのことについての『義理』は、もう果たしてくれたよ。とくに美紗は人には凄く警戒をして近寄らないし、当たり障りない付き合いだけにして心は開かない。俺と優吾だけだったんだ。同性という意味で、杏里のことを信頼していたんだと思う。俺も優吾も、母も信頼する女性という意味で、美紗も杏里のことは間違いがない人間と思い始めていたのだろう」
彼女がもの凄く思い詰めた顔で、日傘を差して現れた日のことを杏里は思い出していた。
「勝手に。子供たちと美紗さんを会わせていました」
「俺から会わせるわけにはいかなかったから。正妻の杏里が許せるなら、いいのではないか。それで、今日はどこに食事に行ったんだ。札幌まで出て行ったのか」
杏里は首を振りながら『焼き鳥』と答えると、樹が非常に驚いた顔を見せる。
「は? あの美紗が。焼き鳥? 嘘だろ。いつもラグジュアリーを求める女だぞ」
「女一人では行けないからと言っていましたよ。樹さんと一度も行ったことがないのも不思議なんですけれど?」
「俺も焼き鳥とかは、一人でいくか、取引先の付き合いでいくかだな。なんだよ。焼き鳥屋に行きたいと言ってくれればいいじゃないか」
「女性でいたかったのではないですか。あなたに似合う上等な女性であることを努力してきたんだと、私は思っていますけど」
「うーん。ま、若い時はそうだったかもな。というか、若くなくなって、焼き鳥屋に興味を示したとしか思えないんだけどな~。なんだよ、俺も行きたくなっただろ」
じゃあ、三人で行きましょう――も、言えない仲で、杏里はその言葉をなんとか飲み込んだ。
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