⑩子犬ちゃん、ほしいものある?

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⑩子犬ちゃん、ほしいものある?

 ススキノの子犬ちゃんと面会してからしばらく。  美紗にも変化が生まれた。 「私も働きたいな」  美紗は二十代のころ、一時期、地元のかまぼこ工場で働いていた時期がある。PTSDと流産を繰り返してから、療養をするために樹を支える専業主婦のような生活に切り替えたという。  甲斐甲斐しく彼を夫のように世話をする穏やかな日々は幸せだったという。自分がなれなかった『大澤家の妻』になった杏里が、姑が望むままに仕事に奔走していることを知りながら、やはり気にしないようにして、杏里があまりすることがなかった『家で待つ妻』の役割を彼女がしてくれていたのだ。  愛する彼女が帰る家で待っていて、激務の日々を癒やしてくれる甘い日々は、夫の樹にとってもかけがえのない日々だったことだろう。  そんなことは契約妻である杏里にはわかりきっていたことだった。  だが、三十を超え『ただ広く遠く淡い愛』に穏やかに変わっていく中、美紗も中年になり、愛だ恋だと追い立てられる二十代を通り過ぎた者たちが、地に足をつけ社会に貢献していく姿を見ると不安になったのではないだろうか。女は恋をして結婚をして子供を産み、また新しく社会に出て行く。自分だけが可哀想な生い立ちだから仕方がないのだと、男の庇護の元、優雅に生きている。追い立てられた不安を募らせ、美紗は日傘を差して、あの公園に立っていたのだと杏里は思う。  そこまで彼女の心情を読み取ったからこそ、杏里は美紗の新しい望みに問いかける。 「なにをしたいの」 「私もお店をしたいな」 「どんなお店。本気なら樹さんにサポートしてもらったらいいじゃない」  だが、美紗がどうしてかそこを断固拒否した。
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