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普通は止めるのだが。樹がどうというより、花南が堂々と言い返していることに唖然としながらも、興味をそそられて見入ってしまっているのだ。
夫はまだ続ける。
「だったら。小樽と札幌を案内しようか。交通機関を使って移動するのは料金もかかるだろう。乗り心地の良い車で、好きなところを案内してあげよう」
「それでは情緒がありません。カメラを持って撮影するのが好きなので、車だと景色を見逃しがちです」
「カメラ? カメラがガラス以外で好きなことなのかな。だったらいいカメラを――」
「父が二十歳のお祝いにと買ってくれた一眼レフを大事に使っています。一台で充分です」
真っ当すぎて、大人の男が持つ財力で押し切ろうとした樹がついに黙った。
樹の負けだ。ほんとうに、彼女の家族はどのような方たちなのか。杏里は興味が湧いた。格式高そうな品格を垣間見せるのに、父親がお祝いにくれたカメラ一台だけを大事に使うと言い切れるその『お育ち』だ。
夫も、初めて余裕のない苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている。
なんとか気を取り直した樹が最後に絞り出すように彼女に問う。
「それなら。君が欲しいものはなにか聞いてみたい。ほんとうに、応援をしたいと思っているんだ」
なにも欲しがらない無欲な女の子の本音を知りたい。これは彼の本音か。
花南は誰の目も見ず、黒いドレス姿で遠くを見据えて答えた。
「私にしか作り出せない芸術と、実家家族のしあわせです」
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