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⑮逃げる妻
夫が帰る場所がひとつだけになった。
坂の上のカフェの引き継ぎは、シェフと夫がしてくれることになった。
シェフのホテル厨房修業時代の後輩が独立を兼ねて、引き継いでくれることに。こちらの後輩シェフは奥様と一緒に切り盛りをしていくとのこと。
もう美紗は店には顔を出さない。樹にも杏里とも、いつまでも顔を合わせない。あの日の別れで最後という心積もりだったようで、引き継ぎをするシェフがあと数回やってくるだけになっていた。
樹と美紗が長く一緒に過ごしたマンションも引き払われた。
夫が帰る場所は、妻と子供たちと、同居の弟が待つ家だけに。
だから毎晩、あの人と顔を合わせる日々が始まる。
どうしてだろう。息が詰まるのだ。夫はどう思っているのか。
契約妻は、これからなにをすればいい? 愛人が受け持っていたことを、これからは私が? 契約になかったことをしなければいけない?
樹のことを嫌いかといえば、まったくそうではない。
この前、伝えたように、夫として尊敬しているし、家族としても社長としても信頼している。
だが毎晩、彼がそこにいるだけで、もの凄い圧迫感を覚えた。
「杏里。次の週末、子供たちとスキーに行こうと思っているけど、どうかな」
息子と義弟と囲む夕の食卓。向かい側の席で白飯をほおばっている夫に聞かれる。
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