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息子たちが笑顔に輝く。『パパ、ほんとに?』『ぼくとソリしてくれるの』と――。いままでだって、週末に子供と遊びに行くことは何度もあった。愛人の家に通っていても、できた愛人だったから、子供たちのために週末パパになるように送り出してくれていたし、パパとママ、叔父ちゃんと一緒におでかけすることも、お泊まり旅行に行くこともよくよくあることだった。
なのに。この日の夜。杏里は樹の顔を見つめるだけで、口を開いただけでなにも答えられなかったのだ。
「義姉さん?」
訝しむ優吾の声に、子供たちもママがおかしいことに気がついた顔をする。長男の一颯はとたんに不安そうになっている。ママはまだみーちゃんと『さよなら』をして元気がないと、ずっと心配してくれているからだ。
夫も気がついた。
「どうした。杏里」
夫の問いに、また声が出ない。
持っていた茶碗を手放し箸も置き、杏里はテーブルから立ち上がりそこから去った。
『ママ?』、『ママ、どうしたの』
子供たちが戸惑う声に、すぐに優吾が『大丈夫だよ。ママはちょっと気分が良くなかったんだよ』と誤魔化してくれる声が背後に聞こえた。
自室に入り、杏里はコートを羽織り、いつも仕事で持ち歩いているバーキンのバッグを引っつかんだ。車のキーも握りしめる。
すぐに部屋を出たところで、夫に遭遇する。
この日の夜も、彼はスリーピースのベストとシャツとスラックス姿のまま。何年も変わらないその人が、杏里の前に立ちはだかった。
「どこに行く。子供たちを置いて」
「あなたもいない日があったでしょう」
さっきは声が出なかったのに。今度ははっきりと言い返していた。
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