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違う。こんなことが言いたいわけじゃない。契約だったのだから、それもわかって夫不在の日も許していたのに。
だが樹は怯まなかった。杏里の腕を掴んで引き留めようとしている。
「俺が疎ましいのはわかっている。いまさら夫面しても、夫じゃないことも。出て行くなら俺が出て行く。だから子供たちから離れないでくれ」
「だから! 子供たちにはあなたも必要なの。そばにいてあげて。今日は、お願い。ひとりにして!! 今夜だけでいいから!」
その手を振りほどこうとすると、夫は致し方ないように手放してくれた。
そのまま杏里は家を飛び出す。いつも運転している黒いアウディに乗り込んで、白く硬く凍り付いている冬の道路へと発進する。
行く当てなんてない。私にはあの大澤の家しかない。居場所はあそこだけ。気ままに過ごして、子供たちと笑って、大好きな仕事に精を出して、親友のような気負わない義弟がいる家で、もう何年も満足に過ごしてきた。夫がたまに帰ってくるぐらいでも、それが心地よかった。
その居場所の空気が変わってしまったのだ。
妻という立場が、いままでと違う重さでのしかかってくる。
夫の綺麗な横顔がどこにいてもちらつく家、彼の目線をいつも感じる家。話しかけられそうなのが嫌で、素っ気なく知らぬ振りをして彼を避ける家。いまになって毎日毎日帰宅してきて、毎晩毎晩、一緒に夕食を食べて、気を楽にして眠ろうと薄着で歩いているそこに、夫と目が合う。その緊張感も堪らない。
今日は月も出ていない。街灯が少ない高台の住宅地を抜け、暗い坂を下りるが、それでも夜の海が遠く見える。ほんの少しの漁り火が浮かんで見える。
初めて頭に浮かんだ『離婚』の文字。
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