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「仕事中でしたか。お邪魔しました」
「いえ。なんといいますか。だいたい、ここに居るわけですよ」
親方である彼が、夜遅くまで工房にいることは誰もが知っていることだった。だから。来てしまったのだろうか。それでも誰かにそばにいて欲しいと杏里は欲していたのだろうか。
「親方は。結婚したい女性はいらっしゃらなかったのですか」
唐突な問いに、また彼が面食らっている。
どういう意図の質問で、どんな気持ちでここに飛び込んできたのか。かなり訝しんでいるようで、彼が返答に考えあぐねていることが伝わってくる。
その時。いつも穏やかな彼の表情が、すっと冷たくなった。ガラスを吹いている時、また弟子達の動きを観察している、職人の時の厳しい顔つきだ。
「美紗さん、小豆島に行くのだと先日、挨拶にきてくれましたよ。シェフと一緒に。私も知っていましたから。美紗さんと社長のご関係。愛人がいなくなって、お困りなのですか」
優しい親方らしくない、棘のある言い方に、杏里は胸を貫かれる。
彼の冷たい目が杏里を軽蔑しているように見えた。
そんなあなたも、美紗さんが愛人であることで恩恵をうけていたのでしょう? その恩恵がなくなって自分一人が夫を受け止めることになって逃げているのかと聞かれたような気もしたのだ。
「結婚を甘く見ていた。そんなお顔をされていますね」
まったくその通りだった。しかも衝動的とはいえ、息子たちの安泰の日々を揺るがす『離婚』なんて言葉すら浮かべてしまったのだ。
一気に顔が熱くなる。杏里はいまになって恥じているのだ。結婚を甘く見ていたことも。離婚を容易く思いついたことにも。
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