⑮逃げる妻

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「私の結婚ですか。私は二度と結婚はしませんし、女性も愛さないと決めています」  その時になって、親方の表情がやっと、杏里が知っている温かなものへと緩んだ。 「一度、結婚はしておりました」  知らなかったので杏里は目を見開いた。 「し、知りませんでした。外商の知り合いからも『芸ひと筋の職人さん』だと聞いていましたので」 「約束なんです。亡くなった妻との」  杏里はまた言葉を失う。伴侶を亡くされていたと知りもしなかった。そのうえ、その妻との約束だから『芸ひと筋』なのだと聞こえもした。  穏やかな親方がさらなる過去を教えてくれる。 「妻は事故で亡くなりまして、その時、お腹に子供がいたんです。女の子でした。ちょうどわかったぐらいの時でした」 「そ、そう……だったのですね……。それはお気の毒に……」 「私も妻も慎ましい生活でしたがしあわせに過ごしていました。私が職人であるようにと支えてくれましたし、ガラス職人として成功することを誰よりも願ってくれた人なんです。いちばんの心の支えだった」  もう杏里は逃げ出したくなった。最愛の妻に、会えることもなかった娘を、いまも彼は愛してガラスに向き合っているということだ。想いだけが存在していて、触れあえるぬくもりや実体は無い。自ら孤独を選んで貫いている。でもそこに永遠の愛がある。  対して自分は? 歪んだ関係を自ら選んでおいて、バランスが崩れて向き合うこともしないで逃げてきた、自分の都合ばかりの女で妻――。
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