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「ガラスを吹いていると、竿の先で冷めていくガラスが綺麗に透き通っていく様子を見るたびに、そこに妻が浮かびます。だから、少しでも納得できなければ残したくないんです。そこに真摯に丁寧に真剣に向き合って納得できたものだけが、私と妻の真実です。それが生き甲斐なんです。結婚はしません。他の女性も目に入りません。これでよろしいですか? お聞きになりたいことについての返答ということで」
「は、はい……。辛いことをお話しさせてしまいました。申し訳ありません」
「いえ。いつもの杏里さんに戻られたようですね」
にこっと遠藤親方が笑ってくれ、杏里も乱れ荒れていた胸が穏やかになっていることに気がついた。
「好きなだけここにいてもよろしいですが。さすがに余所様の奥様とおなじ場所で一晩というのは憚ります。ご主人に、私から連絡しておきますね」
いまの杏里は樹と言葉が交わせそうにないので、遠藤親方から連絡してくれることに甘えてしまった。
そんな遠藤親方は、もう深夜手前なのに、いまから工場でガラスを吹くのだという。
「ここが私もいちばん落ち着く場所なんですよね。寝泊まりもしょっちゅうです。もちろん、自宅にも帰りますけれどね。まあ、溶解炉の火の番ついでです。あと、ひとりきり集中できる時間でもあるんですよ」
親方もコンクールに挑戦する年もあるので、創作活動に励むのはこれくらいの時間なのだという。
工場でガラスを吹くので、杏里は事務所で好きなだけ過ごしていいと言われる。
いまから作業をするからとエプロンをして腰紐を結びながら親方が最後に呟いた。
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