⑮逃げる妻

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「花南も一緒なんだなと思うことが最近多いです。あの子もそう。竿の先に『なにかを』問うているようなひたむきさを感じるんですよ。お姉さんなのかな。ちょっと違う気もするような。なんだか……。そう。あの若い女の子に最近ひっぱられるような感じなんです。もし、娘が生まれて育っていたとしても、年齢は少し花南のほうが上ですけれど。でも『娘とは』花南のような感じだったのかな、なんて――。あ、聞かなかったことにしてくださいね。これで、プライベートのお喋りはお終いです。私も杏里さんの見たことないお顔、忘れますから」  また申し訳なくなって。杏里は平謝りで親方を工場に送り出した。  遠藤親方の連絡に、樹は『お願いします。妻の好きにさせてやってください』と答えたとのことだった。  長椅子のソファーで横になれるようにと、親方が毛布を貸してくれる。  昔ながらのダルマストーブが暖めてくれる部屋で、杏里は紅茶をゆっくり飲み干す。  少し横になって眠る前にと、杏里は工場へと足を運んでみた。  星が映る窓が見えるその下で、遠藤親方が吹き竿を持って、橙色にとろけているガラスに息を吹き込んでいるところだった。  吹き竿を見つめるその目に、いつも穏やかな彼の優しさは見られない。そこに自分の中の『嘘偽りない純真さ』を伝導させるように、そこに己の真実のみを残そうとしているかのように。または、彼が誓う愛を吹き込むその行為は、亡き妻と愛しあっているひとつの行為なのかもしれない。  今夜そこには、杏里が知らない『遠藤という男』がいた。
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