⑯花は見ている

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⑯花は見ている

 目が覚めると毛布にくるまり横になっている自分に気がつく。  おもむろに起き上がると、工房事務所の窓枠には雪が薄く積もっている。まだ外は暗く、粉雪がひらひらと舞っていた。  遠藤親方はまだ工房にいるようだ。あの人が休む時間を奪ってしまったかもしれないと、杏里は申し訳なさでいっぱいになる。  バッグから携帯電話を取り出すと、夫からは着信が2件あった。どれも杏里が車で飛び出した後。親方が連絡をしてからは途切れている。優吾からはメール。『とにかく明日は帰ってきて。子供たちが不安がっているから』とあった。  帰ろう。我が儘はやり通した。子供の母親として帰ろう。  心の中の荒れた波が凪いでいるのがわかる。  結婚した以上、契約もなにもない。世間的にも法的にも『妻』だ。契約違反もなにもない。ただ『妻』であって、子供たちの母だ。  毛布をたたみ日が昇るまでに帰ろうとしたところで、工房から遠藤親方が事務所にもどってきた。 「少しは眠れましたか」  杏里が知っている親方に戻っていた。 「はい。ご迷惑をおかけしました。親方は? 徹夜ですか」 「はあ、たまにやっちゃうんですよね。でも杏里さんのせいではありませんよ。今日は弟子に任せて、日中は少し仮眠のために自宅に帰ります」  そんな彼の手にはトレイがあり、そこに切子グラスが二つほどおかれていた。 「切子ですね」 「数日前に吹いたものが冷却炉から出来上がったので切子の行程になりまして。始めると夢中になっていました」  切子に特に定評がある職人さんでもあった。  彼が切子をしたガラス製品はよく売れる。色()せの切子が売れそうなところ、無色透明のほうが売れる。それだけ、切子の入れ方が緻密で繊細で切れ味がある。透明色だからこそ、その輝きが映えるのだ。
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