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「綺麗ですね。いつも惚れ惚れします」
これも。その切子をグラインダーで入れ込むたびに、奥様を映しているのだろうなと今朝は思える。仕上がっても割らずにここにあるということは、親方が『美しい妻』と認めて持ってきたということだ。
「ミルクティーを淹れますね」
「いえ、私が。親方にばかり昨夜から」
「いえいえ。私のボス、雇い主ですから。昨夜、女性にきついこと言っちゃったなと反省しているんですよ。妻が生きていたら怒られちゃっていたかなと。罪滅ぼしです」
「そんな。本当に昨夜の私は自分勝手で――」
と言ったところで、事務所のドアからノックが聞こえた。
気がついた親方が開けると、夫の樹が立っていた。
黒のタートルネックセーターに、黒のコーデュロイパンツというラフな装いで現れたのだ。
「おはようございます。妻を迎えに来ました」
あの樹がおずおずと借りてきた猫のように事務所に入ってくる姿は、普通のパパさんに旦那さんに見えて不思議だった。スーツを着ている時の麗しさに威厳がまったく取り払われている。それだけ彼が落ち込んでいるから? またそんな姿にさせてしまったと、杏里は罪悪感を再び募らせた。
「いまお目覚めみたいでしたよ。紅茶を淹れているところです。社長もいかがですか」
「では、お言葉に甘えて一杯」
コートの肩に乗っている粉雪を払い落とし、樹が杏里のもとへやってくる。
「落ち着いたか」
「はい。申し訳ありませんでした。帰ります」
杏里の『帰る』の言葉に、樹は意外そうにして驚いた顔を見せた。
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