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「そろそろ行こうか」
「はい」
また花南に力を削がれたせいか、樹の笑顔が柔らかくなっていることに気がついた。
脱いでいたコートを彼がソファーの背から手に取って、杏里が羽織れるように広げてくれた。女性優位の気遣いは変わらない。杏里も甘えてコートに袖を通す。バッグを持つと、樹がそばに寄り添って杏里の腰に手を回して抱き寄せてくれる。
昨夜、これをされたら突き飛ばしていたと思うのに……。今日は思わない。よく知っている夫の手の感触だった。
「親方、お世話になりました。またお詫びは改めて」
「親方、花南さん。ありがとう。またオーナーとして来ますね」
見送る親方のそばに、本当に娘のようにして花南が寄り添っていた。
なのにまた花南がカメラを構えて一瞬でシャッターを押した。
「花南、いい加減にしなさい」
また親方に、父親のように窘められても、花南はなんのその。カメラのディスプレイを確認して呟いた。
「やっぱりご夫妻だな、と思って。今度は素敵なご夫妻として写っていますよ」
この子に。なんて御礼を言えばいいのだろう。
涙が滲んできたそこで夫が気がついてくれ、花南の気遣いを無駄にしないようにと、杏里の涙がこぼれる前に二人揃って外に出た。
偽りもあった。見せかけもあった。契約だった。
でも。夫妻という形で生きてきたこともかわりがない。
今日から、私は、この人と向き合おう。
妻として。粉雪が舞う空を見上げ、やっとそう決意できた夜明けだった。
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