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彼の熱い吐息だけが、杏里の口元に触れている。
「恋人を作っていい――。そう言った日、ほんとうは嫌だと思っていた。でも、縛ることなど契約夫の俺には許されなかった。それでも俺の妻だと、俺以外はと」
「結婚してからずっと、あなただけでしたよ」
樹の目が熱く潤んで揺れたのがわかる。
ほんとうは妻として誰にも触れて欲しくなくて、でもそれを望んではいけない『契約夫』の強がりだった。だが杏里は望むとおりに、自分だけを貫いてくれたことへの嬉しさと申し訳なさが入り交じっていることが、妻の杏里にはわかる。
「一時でも、恋として燃え上がったら。もうあなたのそばにはいられなくなるから、心が孤独で軋むから。だから、私は恋を捨てて、あなたのそばにいることを選んだの。恋はなくても、愛はあってもいいでしょう。『妻』だから。そう思っていたの」
『でも』。杏里は、夫の唇が触れそうなそこで、囁く。
「でも。もう、私は遠慮しない。あなたに」
杏里から唇を重ねた。だがすぐに夫もおなじ強さで愛してくれる。
これまでは『妊娠をするため』の交渉だった。愛人に遠慮をして、優しく浅く、義務的に。キスも一瞬、ほんの少しの愛情表現だったと思う。
今夜は違う。杏里から挑んだ。
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