⑳花にあいにゆく

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 突然去ったアパートの荷造りは、オーナーでおなじ女性の杏里が引き受けた。由緒ある裕福な実家に生まれついたのに、ほんとうに、なにも持っていない子だった。大事なカメラと身の回りのものだけまとめさせられ連れて行かれたようだ。あとは杏里が簡単に荷造りをしても、段ボールみっつぐらいにしかならなかった。彼女の小樽での三年間が、ガラスを吹く日々ひと筋だったことがわかる暮らしぶりだった。  その夜、遠藤親方は元気がなかった。一晩中、工房事務所のデスクで、うつむいて、花南が最後に吹いたグラスをずっと眺めていたようだった。樹は自宅で、悔しそうにブランデーを呷っていた。杏里もそのお供をさせてもらった。  たまに遠藤親方から知らされる花南のその後は、杏里と樹が辿ってきた道以上に、哀しく辛いものだった。小樽に逃げ道を残してあげていたのに――。彼女は『ひとりでいきてゆく』。花南が次に選んだ修行場は『富士山麓、山中湖』。自ら進んで、彼女は自分の彷徨う心を常に自分で携え、決して放棄しないで、痛みもそばにおいて、いつもガラスを吹いている。  やがて、その果てに。彼女はついに生み出したのだ。  願っていた『私にしか作り出せない芸術』を。  『瑠璃空』。彼女が芸術家として認められた作品が大きな作品展で受賞した。  そのうちに、一枚のハガキが大澤家に届いた。 『新しく家族になりました』と手書きのメッセージが記された、花南の花嫁姿の写真だった。  あの小さかった男の子が高校生になっていて、夫になった義兄と息子になった甥っ子と三人、金春色の海を後ろに黒引き振り袖を着た花南の姿だった。
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