㉑菜の花の、坂の上

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 仕事も家業も、育児も、家庭も、夫妻仲も順風満帆――。  今日だって、愛する夫とこんな素敵な浜辺で結婚記念日を迎えられるしあわせ。  あんなに明るい金春色の海だったのに。日が沈むと、花南の瑠璃空のような深い夜の色に吸い込まれていく。  こんな時に、杏里の心の奥から、まだ癒えない小さな痛みと小さな黒い点が現れる……。  美紗のこと。父と母のこと。  夜の食事はフレンチを予約していた。  また海と浜辺が見える個室に案内してもらえた。個室の予約などしていなかったから、これは倉重夫妻の配慮のようだった。  うす暗くなった浜辺の上には、月が昇っていた。今度はその月が遠浅の海に金糸雀(カナリア)色の帯を水面にうつしている。  部屋に入りテーブルについて、向かい合う形で座った杏里と樹はすぐに気がついた。  テーブルの中央に飾られているガラスのキャンドルホルダー。七つのマグノリアだったのだ。 「樹さん、これ」 「不格好だった、あれか。いまの花南の技で作ったものか」 「またチャレンジしたのね、花南さん。素晴らしい出来映え。これが造りたかったのね。イメージ通りだわ……。幻想的で花香るといいたくなる美しさね」 「熟練した技を習得して、もうプロ中のプロだもんな……そうか、ここまでに登り詰めたか」  今度の樹は遠慮なくライカで撮影をした。夫が撮ったその写真の雰囲気もイメージどおりに幻想的だった。  元の工房主が訪れて、成長した姿をひっそりと見せてくれる。とても嬉しいおもてなしだった。  それだけではなかった。運ばれてくるアミューズの器も『大澤ガラス工房』で造られたものだった。花南の兄弟子が吹いたカクテルグラスに大皿、遠藤親方の切子皿も出てきた。
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