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母に怒られるよりも、よっ君の姿が見えなくなり行方不明になったらと思ったほうがゾッとして、うっかり涙が滲んでしまった。
「よかったです。俺の足がバカみたいに速いことが役に立って。こんなことしか能がないものですから」
「そんな。私もけっこう走るほうですけれど、ものすごい瞬発力でしたよ。スプリンターですよね」
「あ、まあ。でも短距離走者ではないですね」
「長距離ですか」
「……いえ、趣味みたいなもんです。身体を動かすしか能がないんです」
「スマートな身のこなしでしたよ。長く運動をされて鍛えられてきた方ですよね」
そう伝えたら、何故か彼が黙りこくった。表情も硬くなる。
あ、根掘り葉掘り聞きすぎたかも? その場を持たせるためのお喋りが過ぎたかなと寿々花も口をつぐんだ。
だが、彼の目線はずっと、だっこされているよっ君に釘付けだった。
「そうしてだっこしてやればよかったんですね。気をつけます」
「ワンちゃんはあまり触ったことがないのですか」
「はい。忙しいうえに、家を空けることも多い独身なので、ペットを飼ったことがないんです。ですが、今年度から新しくなる上司が犬好きでしてね。触れて慣れておいたほうがいいかなと思ってしまいました」
「そうなんですね……」
もう一度だっこしてみますか! と言いたくなったが、他人様に軽々しく触れさせていきなり噛んだりしたら大変なので、そこは寿々花もぐっと堪えた。
母からも、小さい子が触りたいとか言っても気易く触らせてはいけないと懇々と注意するようと言われすり込まれていた。どんなによっ君が大人しく人慣れしていても、絶対に大丈夫と思わないこと。飼い主としてのモットーだと母にも父にも言われている。
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