⑬お嬢さんこちら、ご縁の成る方へ

3/8
前へ
/916ページ
次へ
 店内にはつねに珈琲の薫りが漂っている。カウンターでマスターがオーダー分の珈琲を、銀色のケトルを片手にドリップしている姿が見える。  カウンター席には四十代ぐらいの壮年男性がカップ片手に珈琲を味わっている。冬らしいニットスタイルで、首元に見える襟にはビジネス風のボタンダウンのストライプシャツが見える。着こなしがお洒落な男性。よく通っている常連様なのか、マスターに笑顔で話しかける。 「よかった。マスターの店がなくなったらどうしようかと思っていたんだ。あそこにいまふうのカフェができて、一時行列ができただろう。自分も一度並んでみたんだけれど……。年齢かな~。俺はマスターの珈琲が好きだと思ったんだ。こちらのお店があの店に負けるんじゃと思ったけど……」  いまふうのカフェとは先ほどの若者向けのお店のことかと千歳の耳に入ってくる。それは千歳だけではなく、朋重と長谷川社長の耳にも入ったのか、ちらっとカウンターへと視線が向いたのがわかった。  マスターは静かに微笑むだけで、そのお客様の話題には『おかげさまで、ありがとうございます』と返答しただけだった。 「悪くはないんだけれど。落ち着きもなかったんだよね。それに、心配しすぎたかな。客層ってあるんだなと思えたんだ。新しいお店ができたことで、マスターの店の良さを再認識したよ。あちらはあちら。こちらはこちら。それに、このお店、この界隈で三十年続いているんだから、たくさんの波を乗り越えてきたってことだもんね。マスターの店がそれだけで潰れるわけないかって。ちょっと心配したことが申し訳なかったというか……」  それにもマスターは『ありがとうございます。身体が動く限りは続けますよ』と短く返答しただけだった。
/916ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5113人が本棚に入れています
本棚に追加