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帰ったら何をしたいかなんて訊かないで
姉が怒り心頭というメールを送り付けてきた。
『あんたねー、知らないうちに病気になって、治療が辛いからって病院から逃亡するなんてどういうこと!?
仕事の都合でクリスマス休暇まで休みが取れないの。絶対に帰るからそれまで首を洗って待ってなさいっ』
『…私、打ち首ですか? お姉ちゃん』
そう返信したら何を言ってくるかわからないから、当たり障りない返事をした。
涼真は美穂にも連絡してしまった。メールや電話がガンガンかかる。お姑さんがショートステイに行ったら来るというけれど、お姑さんはショートステイが大嫌い。だから1泊しかしないから、来るに来れなくて嘆いていた。
有難いなぁと思う。こんな私を心配して叱ってくれて。
そしてあらゆる手を使って私を何とかしたい涼真がいてくれて。私には勿体ないくらいいい子に育ってくれて、もう満足。何もいらない。
病院の相談員の塩澤さんが私を訪ねてきた。退院の準備をするという。だから、住まいの心配、涼真の将来のことを話してみた。
有能な塩澤さんは驚くような提案をしてきた。
「シェアハウス?」
「はい。場合によって未成年後見がついている高校生が暮らすこともあるようなんです。まぁ、私の知っている人も入居していて。あ、この病院の元看護師なんですけどね、だから安心というか」
「高校生も暮らしているんですか」
「不思議でしょ。高齢者もいるし、就労している人もいますよ。見学してみます?」
シェアハウスB&Bのパンフレットを見ると1LDKとか1Kとか2LDKとかある。シェアハウスというより共有スペース込みのアパートみたいだ。
「見てみると生活のイメージも沸くでしょうし、退院後にしたいことも具体的になるでしょうし」
「したいこと?」
「そう、したいこと」
私たちは見つめあって沈黙した。したいことなんて何もない。本当に。
不動産屋のシェアハウス担当者の西崎という人が来て話を聞く。普通のアパートの契約とあまり変わりないように思った。家賃もしっかりしたお値段だ。
一部変わった取り決めがあった。シェアハウスなのでいろいろな住人がいる。そのためのルールだ。
これも理解し、許容し対応できる範囲内だった。涼真が一緒に行ける土曜日に見学することにした。
「内覧日ですが、私の他にオーナーが案内します。二人でお迎えに上がりますね」
西崎さんがにっこり笑う。
「めちゃくちゃ美人ですから、期待していてください。一見の価値はあります」
「オーナーに一見の価値なんて言っていいんですか?」
「いや、中身を知るとただの残念な人ですから」
残念なオーナーって不安なんだけれど。
当日、久しぶりに服を着た。入院した頃はブラウス一枚でもよかったのに、涼真がカーディガンを持ってきた。
「秋が近くなってきているんだよ」
コットンセーターにカーディガンを着て病院の玄関に立つと確かに空気が冷たくなっていた。
不動産屋の車が来て、運転席には西崎さん、助手的にはとてつもなくきれいな格好いい人が乗っていた。
「石上さん、初めまして。B&Bの大熊葵です」
よく通る、女性にしては低い声。真っ黒のスーツを着てスリムなその人は中性的な美人だった。
どこも残念な感じはしないけど?
「どうぞ、後部座席へ。涼真君が奥の方がいいかな?」
「は、はい」
涼真が赤くなっている。あ、なんか変な感じ。
車内で話をしていると大熊さんは涼真の高校の先輩だとわかった。
「私も大学に行くのにどちらの親も再婚していて遠慮もあって、給付型奨学金をもらったんだ」
「給付型って成績を落とせないあれですよね」
「うん、涼真君も挑戦してみたら? かなり真剣勝負で大学生活を送れる。まぁ、成績が落ちても貸与型に切り替わるだけだから気は楽だったよ」
…一人でもやっていけるという話。
「今もB&Bには大学生がいて、この間から成績が落ちたと騒いでうるさいんだ。今日はいない予定だから静かだよ」
涼真は興味津々だ。多分、塩澤さん経由で私や涼真のことを聞いていたからこの話をしてくれたんだと思う。
それは逆に私がいなくなっても涼真を引き受ける覚悟があるということなのかな? ここにも残念な要素は何一つ無い。美しくて…、良い人だ。
警察署の真向かいのお蕎麦屋さんの奥にシェアハウスはあった。住人は地域交流スペースのイベントに行っていて、今は殆どいないという話だった。
1階にあるその部屋は2LDKといっても2DKくらい、収納もあるし二人ならば十分な広さだ。シャワールームが各部屋にあって、お風呂は予約制で男女別に4つあった。
共有リビングは1階で広々としていた。南向きなので部屋も明るい。そしてきれい。
「1階にいる高齢者がお掃除やお料理をしてくれるんですよ。でも、十分にできないからさっき言った大学生が手伝ってくれています」
オーナーは蕎麦屋に併設した家に住んでいるという。シェアハウスの運営管理は不動産屋に任せているという話だった。
涼真は気に入ったらしく、隣にある地域交流スペースを西崎さんと覗きに行ってしまった。
「よかったら、近所にお茶しに行ってみませんか?」
大熊さんがとてもきれいに微笑んだ。
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