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警察署や市役所前は商店街になっている。その商店街の中にある喫茶店に二人で入る。
「喫茶店なんて久しぶり…」
美穂と会った時が最後じゃないかと思う。あれ? それじゃあ、一体何年振り?
「お仕事して、子育てして、余裕なんてないですよね。あ、いや私のことですけれど」
「? 大熊さん、お子さんがいるんですか?」
そっと大熊さんが笑う。
「娘がいます。今日はお店が休みだから大輔さんが見てくれているので今だけ自由の身です」
「まだ小さいんですか?」
「はい、3歳になったところで。もう目が回りそうです」
涼真も小さい頃は走り回って、泣いて、笑って確かに目が回りそうだった。今となっては懐かしい思い出だ。
「子どもはすぐに大きくなりますよ」
「わかるような、わからないような気分です」
ミントティーを頼んでくれた。少し飲んでみたら飲めそうだった。
「無理しないでくださいね。私がいただきますから。ここのマスターは知り合いなので気を使わなくて大丈夫ですよ」
席も他のお客さんから死角になるところ。本当に休むだけでいいらしい。
「なんとなく、退院後の生活のイメージがつかめましたか?」
…まただ。帰ったら何をしたい? という話。
「はい。涼真も気に入ったみたいで。ただ、お家賃が…」
「そうですよね。商店街にも仕事がありますから、体の調子をみながら働くということも可能ですよ」
思いもしなかった。働く、私が。
「体の調子を見ながらですけどね。倒れちゃったらいけませんから」
大熊さんがふっと俯いた。
「私は倒れちゃいました。娘を妊娠している時に。病院で大輔さんは私と娘、どちらの命を優先するか考えておいてほしいなんて言われたそうです。そんな選択させていいはずないのに」
大熊さんが微笑む。
「やりたいことをして生きられる人なんて正直一握りしかいませんよね。私たち普通の人間はどうにかして生きていかなければならない。働かなければ生きていけませんものね。でも、それで命を縮めるのは本末転倒。折り合いをつけて生きていくしかないって思うんです。お迎えなんていつ来るかわかりませんから」
「ハードなことをきれいな顔をしてさらりと言うんですね」
「でも、したいことは何ですかって言われても困るでしょ。生きていくためにどうしますって訊くべきだと思っていました」
かなり乱暴な話し方で申し訳ありませんと頭を下げる。
「夢のように漠然とした話よりも具体的な明日の話の方が大切だって思うんです」
「それはわかります。今日と明日で精いっぱいで今日まで来たようなものですから」
「それを続けていきませんか。あの家で」
真っ直ぐな視線に胸が痛む。私はそんなに強くない。強くないんだ。
今日を繋いで生きていくにも、涼真の未来の邪魔はしたくない。無様な様も見せたくない。
できれば、きれいに格好良く、傷つけないようにして立ち去りたい…。
「葵ちゃんズルい。ここに来るならば私も誘って」
天使のようにかわいらしい女の子が突如現乱入した。その後ろには涼真と西崎さん。
「ああ、石上さん、この子がさっき話した成績が落ちて騒いでいる大学生」
「変な紹介しないでっ。松倉深耶です。高校生の弟とB&Bに住んでいます」
「俺と同じ高校の別のクラスだった。びっくりしたよ」
「そうだったの」
涼真が私の隣に座り、興奮気味に話を続ける。かなり珍しい。
「深耶さんに奨学金の話を聞いて、俺も大学に行ける気がしてきた」
「涼真君、大学は行くだけじゃダメ。目的がないと」
「成績のモチベーションだものな」
「葵ちゃん、もう言わないでっ」
西崎さんがくすくす笑っている。
「確かに大学で何を学ぶかは大切だよ。だけど2年生だから進める学部とか進めない学部とか決まってきているかもしれないね」
「西崎さん、それは違う。行きたい学部が決まったら、そこに行けるよう努力するのみっ」
姉弟で入居しているならばそれなりに事情があるのだろう。なのにこの明るさ、力強さ、真っ直ぐさ。眩しいくらいだ。
その輝きを正面に浴びて、涼真の瞳にも力強い光が見えるようだ。大人びた涼真ではない、年齢相応の男の子の表情で。
見てみたい、大学生の涼真を。大人になった涼真を。ずっと今まで見てきた。これからも見ていきたい。
『退院したら何がしたいですか?』は私が生きていくためのモチベーション探しの言葉。
私はもう十分だと思っていた。精一杯頑張って、涼真は本当に良い子に育った。もう何か望むなんて贅沢だと。
でも、また欲が出てしまった。1日1日明日を積み重ねた先にある未来を。
「じゃあ、私も頑張って働かなくちゃ」
ぎょっとしたように涼真と西崎さんが私を見る。大熊さんはとてもきれいな顔で微笑んだ。
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