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朧月夜に桜の散り際なら、あなたはいないだろう。そう思って庭園の端に一本だけ離れたところにある桜のもとへ来た。満開の桜はもちろん美しいが、私にはこの桜が性に合う。
一人桜を見上げていると誰かがこちらへやってくる気配がした。聞き慣れた軽めの足音は私の隣で歩みを止める。
「綺麗ですよね。この桜、私も好きなんです」
何故あなたがここに……。
「お嬢様。このような夜更けにお一人で出歩くなど、感心できませんね」
「あなたの姿が見えたものだから、追いかけて来てしまいました。執事のあなたが一緒ですもの、何も問題ないですよね?」
あなたは屈託なく笑って、薄闇にほのかに光る桜を見上げた。その横顔から目を逸らせなくなる。
桜の夜の朧げに。
ただ一度でいい、あなたを抱きしめることが出来たなら──
そう思ってしまう己の浅ましさに、胸が苦しくなる。あなたはどんなに欲しても手の届くことのない方。こんなにも近くにいるのに、この想いは決して許されるものではない。
微かな風があなたの髪をひと撫でしてゆく。
その髪に、桜がひとひら舞い落ちる。
桜の夜の朧げに。
ただ一度でいい。
あなたを抱きしめたいと請い願い──
花びらに手を伸ばす。
髪に触れた手はそのまま吸い寄せられ、かき抱き抱くように、けれど壊してしまわないように。そっと、触れるか触れないかの腕の中にあなたを閉じ込めた。
「あの……?」
戸惑うあなたの声。
このまま、強く抱きしめられたなら。
微かに力が籠った指先に、抗うようにその手を強く握り締める。
「……失礼しました。花びらが、髪に……」
ほんの一瞬の出来事が、永遠であるように思えた。
「ありがとうございます……あの、その花びら、私に下さいませんか?」
そう言って真っ直ぐに私を捉える瞳に、叶わぬ夢を抱いてしまいそうになる。
「どうぞ……」
差し出された手のひらに花びらをのせると、あなたはそっと握りしめ優しく微笑んだ。
「……冷えてきましたね。もう、戻りましょう、お嬢様」
あなたの手にあるその花びらが、私の心であったなら──
朧月夜に見た夢は、風に舞い散る花びらとともに何処かへと運ばれて行くのだろう。
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