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 春は気持ちのいい季節だ。空気は柔らかく緩み、聞こえてくる鳥の鳴き声もどこか呑気に聞こえる。周りの連中が花見だ酒だと浮かれる気持ちも、まあわからなくはない。 「ふ……、へ……、くしゅん!」  白っぽく霞んだ空を仰ぐと同時に、間の抜けたくしゃみが飛び出す。三輪は食事のために下ろしていたマスクを、急いで定位置へ戻した。アレルギー持ちなので、毎年この時期はマスクを手放せない。 「大丈夫? やっぱり食堂の方がよかったんじゃないですか?」 「いい。あそこは視線がうるさい」 「視線がうるさいって」  香川は笑うが、誇張ではなく真実だ。  どこにいても人目を引いてしまう同伴者のせいで、社内の食堂では落ち着いて食事ができない。その上近頃は同席をお願いされるようになってしまい、仕方なく人気のない屋上に避難することにしたのだ。  だが花粉が飛び交う屋外での食事は、思った以上に苦労が多かった。口にものを入れるたびにいちいちマスクをずらすのが、面倒くさくてたまらない。 「はい主任、たまごサンド。そっちのハムサンドもらいますね。トマトが挟まってるんで」 「ああ」 (視線も花粉も厄介だけど、香川とご飯を食べるのはラクなんだよな)  慣れた様子でサンドイッチを取り換える男を眺めながら、マスクの内側でこっそり欠伸をする。脳が緊張から解放され、体がだらりと弛緩した。長閑な陽気も手伝って、目を閉じたら最後、うっかり眠ってしまいそうだ。 「花粉症って辛そうですよね。薬は飲んでるんですか?」 「いや、薬は眠くなるから飲まないようにしてる。マスクをしてればたとえ洟が垂れていても人には気づかれないし、特に問題はない」 「マスクの下で洟を垂らしてるってこと? 何それ、すげえ見てみたい」  香川を苦手食材処理係に任命して早一ヵ月。彼に対して抱いていた反発心はずいぶんと薄れていた。香川の方もいくらかさばけた話し方をするようになったが、オフィス内では以前と変わらず部下としての節度を保って接してくる。香川のこうした如才なさは、馴れ合いを嫌う三輪にとっても都合がいい。 「タルタルソースは平気ですか? エビカツにかかっちゃってますけど」 「トロっと系なら平気だ。ダメなのはねっとり粘着質なやつ。特に生温いのは最悪だな」 「よかった。このエビカツサンド結構いけるんで、主任にも食べてほしかったんですよね」  コーヒー片手に美味そうにサンドイッチを頬張る香川を見ていたら、ぐうと腹が鳴った。三輪は指で顎先までマスクをずらし、いけるというエビカツサンドにかぶりつく。カリッと焼いたパンに、サクサクの衣。黒胡椒の効いたタルタルソースが、エビのほどよい甘みにマッチしていて、とても美味しい。 「うん、確かにいける」 「でしょう? また買ってきますね。下のデリのやつなんですけど、サンドイッチ以外の総菜も美味いんですよ。卵をたっぷり使ったキッシュとか、主任好きそう」 「香川が言うなら間違いないだろうな」  お世辞ではなく本心だ。これまで香川が用意してくれたもので、食べられないものは一つとしてなかった。中にヌメヌメ食材が潜んでいたとしても、それらは香川が全て平らげてくれる。三輪に秘密を握られているからというより、元々面倒見のいい性格なのだろう。 「香川って本当にマメだよな。俺と播磨の世話を焼きながら、周りの人間にも気を遣って。休憩の時くらい少しは気を抜いたらどうだ?」  少し前まで休憩中でも眉間にしわを寄せていたくせに、我ながら現金なセリフだと思う。だが香川と昼食を取るようになって、三輪は小休止の大切さを痛感した。ただでさえ神経を遣う営業職だ。ずっと張り詰め通しでは息が切れてしまう。 「俺は別にマメじゃないですよ。八方美人なだけです。そうやって相手との間に壁を作って自分を守ってる。本当の俺を知って、幻滅されるのが怖いんです。情けないでしょ?」  フェンスの向こうに広がるビル群に目をやりながら、香川が自嘲気味に微笑む。  
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