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いい歳をした大人、しかもオフィスでは偉そうに説教を垂れている上司が、キスごときに怯えているなんて、さすがの香川も呆れただろうか。
そもそも香川は人より早いというだけで、好いた女性と体を繋げた経験はあるのだ。それに比べて自分は、体どころか他人と心を通わせ合ったことすらない。
「もしかして粘着質なものが苦手になったのって、その誰かとのキスが原因?」
三輪は目を伏せることでそれを肯定する。
改めて言葉にされると、本当につまらない理由だと思った。しかも相手は泥酔した義父だ。義父の方は義理の息子に大人のキスをしたことなど覚えてもいない。三輪が酒の席を好きになれないのは、酔った人間の質の悪さを身に染みて知っているからだった。
「……体温とか体液がダメって、直接じゃなければ平気ってことですか?」
「多分」
週末をホテルで過ごすようになる前は、自分で欲望の処理をしていた。コンドームを着けた上から、ビニール手袋をはめた手で擦り立てるだけの、味も素っ気もない自慰行為。それでも薄いビニールに守られていることで、安心して行為に没頭する事ができた。
「そう。なら、ちょうどよかったですね」
何がちょうどいいんだろう。そう思って顔を上げようとした瞬間、何か柔らかいものが不織布越しに唇に触れた。
表面を擦り合わせ、唇をふにゅっと押し潰してから、温かな感触が離れていく。ゆるゆると瞼を上げると、鼻先がぶつかる距離に見慣れた香川の顔があった。
「香川……っ? 一体何を――」
「練習です。マスク越しなら平気かと思って。気持ち悪かったですか?」
驚いたけれど、決して気持ち悪くはなかった。確かに人の体温を感じたのに、不織布越しだったからか、恐れていたような嫌悪感はない。
「いや……、マスク越しなら大丈夫みたいだ」
「回数を重ねたらもっと平気になるかもしれない。ねえ主任、どうせならこの際キス嫌いを克服しませんか?」
「ええっ!?」
驚いて体を仰け反らせた拍子に、背後の壁で頭を強打する。だが香川の提案があまりに衝撃的すぎて、痛みを感じる余裕もなかった。
「キスができるようになれば、自動的にぬめっとも克服できますよ。その方が食事の度に食べものをトレードするより手っ取り早い」
「そっ、それはもっともな意見だけど、いくらなんでもそんなことを頼むわけには……」
あわあわとみっともなく狼狽え、そんな自分をごまかすようにサンドの包み紙を弄る。上司の威厳も何もあったものじゃない。
「ただの訓練なんだから、そんなに深く考えないでください。セックスはともかく、好きな相手とのキスってほんとはすごく気持ちいいものなんですよ。それを主任にも知ってほしいと思って。どうですか?」
エビカツサンドを勧める時の気安さで、香川が言う。
(本当に……? 本当に訓練すれば、マスクがなくてもキスできるようになるのか……?)
十年以上無理だったのだ。そう簡単にヌルヌルを克服できるとは思えない。だけどこの機会を逃したら、もう二度とこんな申し出をしてくれる奇特な人間は現れないだろう。
「でも、君は迷惑だろう? マスク越しとはいえ、同性の上司とキスなんて……」
「迷惑だなんて思いません。それに主任の話、なんだか他人事だと思えないんです。やってダメなら諦めもつくけど、やらないで諦めるのは悔しいじゃないですか」
グラつく思考を、やけに前向きな言葉で香川が後押しする。
キスが平気になれば、ヌルヌルはもちろん、セックスも平気になるのだろうか。こんな自分でも他の人たちのように、普通の恋愛ができるかもしれないと夢見てもいいのだろうか。
三輪は乾いた不織布にもう一度触れ、それから隣に座る男を見つめた。真摯な眼差しに冷やかしの色はいっさいない。香川は真剣なのだ。真剣に、三輪のキス嫌いを克服しようと考えてくれている。他人事とは思えないというのも本心なのだろう。
熟慮の末、三輪は腹を括った。みっともない自分を曝け出した今、三輪に恐れるものはない。そう、ぬめっとしたもの以外は。
「わかった。迷惑をかけると思うけど、やる以上は本気で治す気で頑張ってみる」
よろしくお願いしますと、姿勢を正して頭を下げる。香川は何度か瞬きをしてから、一緒に頑張りましょうねと鷹揚に微笑んだ。
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