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「さっき、播磨のことが羨ましかったです」
ハンガーにかけたスプリングコートを羽織っていると、不意に声をかけられた。
「さっき?」
「俺も主任に叱られたいな」
なんのことだろうと考えて、先ほど播磨と交わしたやり取りのことだと気づく。
「叱られたい? 褒められたいじゃなくてか?」
「上辺を褒められるより愛情を感じたから」
「愛情って……、仕事の話だろう?」
「でも播磨に手を握らせてた。俺の時は振り払ったくせに」
責めるような視線を向けられ、言葉に詰まる。
どうして自分がこんな目で見られなければいけないのだろう。理不尽だと思うのに、抗議の言葉が喉の奥に引っかかってしまう。
中途半端にコートを羽織ったまま固まった三輪に、香川がゆっくりと近づいてくる。足先がぶつかる手前で立ち止まり、歪んでいたコートの襟を直してくれた。
「……ありがとう」
「マスクは? 外に出るのにしなくていいんですか?」
言われてみれば、会社を出てからずっとどこか上の空で、マスクを着けるのをすっかり忘れていた。急に鼻の奥がムズムズし出したような気がして、慌ててポケットを探る。だが指がマスクに触れるより先に、唇に温かい何かが触れた。
「な――」
「さっき手を洗ったから汚くはないですよ」
唇に触れたのは、香川の人差し指だった。節の目立つ長い指が、「静かにして」と言うように三輪の唇に押し当てられている。
「香川? 何をしてるんだ?」
「ほんと、俺何してるんだろう?」
質問に質問で返して、香川がフッと噴き出す。おかしくもないのに笑ったようなその顔は、これまで見たことのないものだった。部下の顔とも、屋上で見せる顔とも違う、知らない男の顔だ。
「なんでかな。主任を見てると、この辺りが妙に疼くんです」
自分の胸を指差しながら、香川が告げる。
「疼くって、どういう……」
「モヤモヤしたり、イライラしたり」
それは三輪のことを疎ましく感じているということなのではないか。もしやこの指は黙れという意味なのだろうか。
「それに、触れると背中がざわっとする」
そう言うと、香川は下唇をぺろりと舐めた。唾液で光る唇が眼前に迫り、三輪の口に押し当てた指をやんわりと食む。
「っ……!!」
さっきの香川の言葉に触発されたのか、濡れた感触が唇の縁に触れた瞬間、寒くもないのに背中がぶるっと震えた。震えは頭の先から指先まで伝播し、最後に心臓がドンと鳴る。
「――う、うわああっ!」
「主任っ!?」
目の前の男を突き飛ばし、床に転がっている鞄を慌てて拾い上げる。踵が潰れるのも気にせずに靴をつっかけると、無我夢中で部屋を飛び出した。
最悪だ。
指越しだったとはいえ、確かに唇に他人の唇が触れた。しかも間際に舐めたりするから、香川の唇は唾液でしっとりと濡れていたのだ。
唇に残る生々しい感触。熱を帯びた目で見つめられて、全身の産毛が逆立った。頭はよせと言っているのに、体が勝手にさっきの感覚をなぞる。くり返しくり返し、まるでこの混乱ごと脳みそに刻みつけるみたいに。
(ありえない……本当に最悪だ……!)
鞄を胸に抱え、早足で駅へと向かう。どれだけ振り払おうとしても、指越しのキスの感触は消えてはくれなかった。
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