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「香川が?」
一瞬聞き間違いかと思った。なんでもそつなくこなす男が、初体験で躓いたなんてにわかには信じがたい話だ。
「途中までは完璧だと思ってたんですよ? 流れもムードも悪くなかったし。だけど彼女に触れた途端、頭が真っ白になってしまって」
「まさか、女性に乱暴な真似を……?」
「挿入までに三回イキました」
予想の斜め上を行く返答に思わず絶句する。
勇者だ。自分が香川の立場なら、二回目の暴発の時点で心が折れていただろう。
「彼女は気にしなくていいって言ってくれたけど、やっぱり気まずくなってしまって。結局二度目はないまま別れることになりました。高校二年の時です」
溜め息混じりに告げる横顔は三輪でさえ見惚れるほどの男ぶりで、だからこそ憐みを誘う。当時の香川はまだ十代、思春期真っ只中だ。心に負った傷は大きかったに違いない。
「初めてで気負いすぎただけじゃないのか。香川ならその後もチャンスはあっただろ?」
「彼女と別れてから二人の女の子とつき合いました。でもそういう雰囲気になるとあの時のことを思い出して、下半身がまったく反応しなくなるんです。それからは女の子とつき合うこと自体、もう怖くなっちゃって」
そう言って、所在なげに首の後ろを掻く。
モテまくっている裏で、香川がそんな悩みを抱えていたなんて思いもしなかった。
「医者には診てもらってみたのか?」
「いいえ。でも自分でする時はちゃんとエレクトするし射精もできるから、完全に俺の気持ちの問題なんですよね……って、食事時にする話じゃないですね。すみません」
「いや……」
微妙な空気が流れる中、どちらともなく食事を始める。サンドイッチから摘まみ出したトマトの処分に困っていると、香川が食べかけの幕の内弁当をこちらに差し出した。
「それ、食べないならいただいてもいいですか? 生野菜食いたいなって思ってたんです」
種のヌルヌルは嫌いだが捨てるのも忍びなかったので、香川の申し出はありがたかった。
「ああ。別にかまわないけど」
「ありがとうございます。お返しに卵焼きどうぞ。まだ手をつけていないので」
弁当容器の空いたスペースにトマトを置き、替わりに卵焼きを失敬する。淡い色味の卵焼きは、出汁の味がしてほんのりと甘かった。
「おかしなことを暴露する羽目になっちゃったけど、ちょっとスッキリしました。昨日の話を聞かれたのが三輪主任でよかったな」
「俺は別に部下の下事情なんて知りたくもなかったよ」
部下が早漏だろうが童貞だろうが、心底どうでもいい。顔を顰めた三輪を見下ろし、香川はふっと鼻先で笑った。
「主任、またこうして一緒にご飯食べませんか? トマトなら喜んで引き受けますから」
「嫌だよ、そんな面倒くさい」
つい本音が漏れてしまったが、香川は特に気にした様子もなく、三輪が譲ったトマトに箸を伸ばす。
いつもきちんと整えている前髪が、ビル風に煽られて乱れていた。対して壁に体を預けている三輪の髪は毛先が微かに揺らぐ程度だ。香川が風を遮るもののない右隣に座ったわけを今になって理解した。
(こういうところはやっぱりかわいくないな)
霞がかった空の下、女性陣がうっとり見つめるよくできた顔を眺めながら、三輪は「こんな顔して実は早漏」と胸の内でこっそり呟いた。
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